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清州城(きよすじょう・清須城)は、織田信長が尾張支配の本拠地とした城。 1405年(応永12年)、尾張・遠江・越前の守護だった室町幕府管領の斯波義重(しばよししげ)が築城。 戦国期に入ると、尾張国守護代で清州三奉行・弾正忠家の信秀(信長の父)の居城となるが、信秀が古渡城に移ると岩倉織田氏の信友の居城となった・・・ 信秀が死去すると信友は信長と対立し、1555年(天文24年)、信長に討たれ、清州城は信長の居城となる。 1563年(永禄6年)、信長が小牧山城に移ると清州城は城主を置かない番城となった。 1582年(天正10年)、本能寺で信長が討たれると(本能寺の変)、清州城は次男信雄が相続したが・・・ 1590年(天正18年)の小田原攻め後に豊臣秀吉の移封命令を断ったことで改易され、1595年(文禄4年)に福島正則が入城した。 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後は、徳川家康の四男松平忠吉、続いて九男徳川義直が入城したが・・・ 1610年(慶長15年)に名古屋城が築城され、清州の城下町も移転したため廃城となった。 名古屋城の築城にあたっては、解体された清州城の資材が使用されたのだという。 |
※ | 上の画像は、1989年(平成元年)に建てられた模擬天守。 |
1560年(永禄3年)に駿河の今川義元が尾張へ進軍した際、信長は清州城から出陣。 熱田神宮で祈願し、桶狭間の戦いで義元を破った。 |
大勝した信長は熱田神宮に塀を奉納したのだという。 その塀をモデルにしたものが現在の天守閣の入口に設置されている。 |
1562年(永禄5年)、桶狭間の戦い後、岡崎城を奪還して今川氏から独立した徳川家康は、清州城で信長と同盟を結んだ(清州同盟)。 |
清州同盟で尾張国東側の脅威をなくした信長は、美濃を攻めるため小牧山城を築き、1567年(永禄10年)、稲葉山城を攻略して新たに岐阜城を築いた。 その頃、信長が政策として掲げたのが「天下布武」。 |
1582年(天正10年)の本能寺の変後、織田家の継嗣問題と領地再分配を話し合う会議が清州城で開かれた(清州会議)。 |
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、清州城が東軍の前線拠点となった。 |
愛知県清須市朝日城屋敷1−1 名鉄名古屋本線「新清洲駅」・ JR東海道本線「清洲駅」から徒歩15分 |
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