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天 下 布 武
織田信長の政策


編集:yoritomo-japan.com








織田信長像


 織田信長は、1567年(永禄10年)に美濃を攻略し、小牧山城から岐阜城に移った頃から、「天下布武」の印章を使用するようになる。

 「天下布武」

 「武を布いて天下を取る」つまり「武力で天下を取る」「全国制覇を目指す」とも解釈できるが・・・


 近年の研究で「武」とは「七徳の武」のことだと言われている。

 「七徳の武」とは、禁暴・戢兵・保大・定功・安民・和衆・豊財。

  信長が皆に伝えたかったのは、

 「暴力のない穏やかな世の中にするため、戦争を止め、国を保ち、功をたて、安心できる生活を実現し、和をもって人に接して、豊かな経済を築く」

 といった感じだったのだろうか・・・


 1568年(永禄11年)、信長は室町幕府の第十二代将軍・足利義晴の子義昭を奉じて上洛している。

 「天下布武」の「天下」とは、五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)のことで、室町幕府と将軍も含んだものとされている。

 信長の「天下布武」の目的は、五畿内の平定と義昭を将軍に就任させて室町幕府を再興させること。

 したがって、永禄11年の上洛で達成されたとされている。





~天下静謐を望んでいた信長~

 義昭を将軍に据えた信長だが、それは義昭に従うということではなく、傀儡化して畿内支配を独自に進めるため。

 上洛の翌年には義昭の権力を制限するための「殿中御掟」16か条を呈示。

 さらにその翌年には5か条を追加している。

 ただ、義昭が殿中御掟を守っていたという形跡はなく、信長の本心を知ったことで徐々に反信長勢力を築き始めることとなる。

 これに対して信長は、1572年(元亀3年)9月、十七ヶ条の意見書(異見十七ヶ条)を提出して義昭を批判。

 義昭は信長と手を切ることを考え始めることになる。

 意見書は義昭以外にも配られ、信長の正義を知らしめるために送られたものと考えられている。


 その翌月・・・

 甲斐の武田信玄が遠江国に侵攻を開始。

 12月には、三方ヶ原の戦いで信長の同盟者徳川家康を破って三河国に侵攻。

 信玄は朝倉氏・浅井氏・本願寺などの反信長勢力と手を組んでいたことから、信長は窮地に立たされる。

 諸説あるが、義昭が信長と手を切る覚悟を決めたのは、信玄の侵攻がきっかけという説がある。

 信玄の侵攻で優位に立った義昭だったが、翌年4月、信玄が三河国で病に倒れて横死したことで立場は逆転してしまう。

 7月になると、義昭が京都を追放され室町幕府が滅亡。

 「天下」は信長が差配することに。

 その後、信長は勢力を拡大していくが、それは・・・

 「世の中を穏やかに治めることを目標にしていた信長に敵対する勢力を排除した結果であって、全国を支配しようとしていたわけではない」

 という説がある。









小牧山
リンクボタン小牧山
(小牧市)

 1562年(永禄5年)、清州城で松平元康(徳川家康)と清州同盟を結んだ信長は、翌年、小牧山城を築き、美濃攻略の拠点とする。



岐阜城
リンクボタン岐阜城
(岐阜市)

 1567年(永禄10年)には稲葉山城を奪取した信長は、稲葉山に新たな岐阜城を築いた。

 信長に「天下布武」の政策を進言したのは、幼少期の信長(吉法師)の教育係を務め、成長後は参謀として活躍した臨済宗妙心寺派の僧・沢彦宗恩(たくげんそうおん)といわれている。

 また、井ノ口と呼ばれていた稲葉山城下を岐阜と改めたのも沢彦の進言によるものなのだという。



武田信玄像
リンクボタン武田信玄
(甲府駅前)

 1572年(元亀3年)、遠江国に侵攻し、三方ヶ原徳川家康を破った武田信玄は、翌年、三河国に進軍するが、病に倒れ、長篠城で療養した後、甲斐国へ撤退。

 4月12日、その途中で死去している。

 のちに家康に仕えて徳川四天王のひとりに数えられた井伊直政は、信玄の精鋭部隊「赤備え」を継承し、小牧・長久手の戦いでは「井伊の赤備え」の名を天下に轟かせている。



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