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武田氏は、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏。 武田信玄は、甲斐武田家第19代当主。 本拠は、甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)。 信濃、上野、駿河に侵攻して領国化し、1572年(元亀3年)には、将軍足利義昭の要請で上洛するために甲府を発ったが、翌年、三河国の野田城を包囲中の陣中で病に倒れ、4月12日、甲府へ帰る途中の信濃国伊那谷(いなだに)で死去(53歳)。 武田軍は、戦国最強の騎馬軍団として知られ、上杉謙信との数度にわたる川中島の戦いは知られている。 菩提寺は甲州市にある恵林寺。 武田不動尊を祀る明王殿の裏に墓所がある。 |
武田神社は、信玄を祭神とする社で、躑躅ヶ崎館の跡地に建てられている。 |
およそ軍勝五分を以って上と為し、七分を中となし、十分を以って下と為す その故は、五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕りをするが故 たとえ戦に十分の勝を得るとも、驕りを生ずれば次には必ず敗るるものなり すべて戦に限らず世の中のことこの心がけ肝要なり |
川中島古戦場(八幡原史跡公園)は、第4次川中島の戦いで信玄が本陣を敷いた場所。 武田の本陣に切込んだ上杉謙信は、信玄に三太刀斬りつけたが、信玄はそれを軍配団扇で返したのだという。 後で確認すると軍配団扇には七つの傷が残されていたのだとか・・・。 |
謙信との戦いで信濃善光寺の焼失をおそれた信玄は、本尊(善光寺如来)と寺宝などの全てを甲斐国に移した。 |
信玄によって甲斐国に創建されたのが甲斐善光寺。 |
恵林寺(えりんじ)は、1330年(元徳2年)に二階堂貞藤(道蘊)が創建。 開山は夢窓疎石で、臨済宗円覚寺派の寺院として開かれた寺。 1541年(天文10年)、信玄が臨済宗妙心寺派の明叔慶浚・鳳栖玄梁を招いて再興した。 |
武田不動尊は、信玄が自らの姿を模刻させたというもの。 |
武田八幡宮は甲斐武田家初代当主の武田信義が元服した神社。 |
東光寺は、新羅三郎義光が諸堂を建立して興国院と称したのを始まりと伝えられる寺。 鎌倉建長寺開山の蘭渓道隆が入山し禅宗寺院(臨済宗)として再興したことでも知られる。 戦国期には信玄が再興し、建長寺派から妙心寺派の寺院となった。 |
武田義信は、信玄の嫡男だったが、廃嫡され東光寺自刃した(30歳・病死とも伝えられる。) |
富士山本宮浅間大社は、浅間神社の総本社。 1569年(永禄12年)、駿河国へ攻め入った信玄は、本殿前に「枝垂れ桜」を植えたのだという(現在の桜は二代目)。 翌1570年(元亀元年)には、北条氏康との戦いを前に参詣し、願状を奉納した。 |
北口本宮冨士浅間神社の東宮本殿は、1223年(貞応2年)、鎌倉幕府二代執権の北条義時による創建。 現在の建物は1561年(永禄4年)に信玄が再建したもの。 |
冨士御室浅間神社は、富士山最古の神社といわれている。 |
冨士御室浅間神社には、1557年(弘治3年)と1566年(永禄9年)に信玄が長女で北条氏政室となった黄梅院の安産・無病延命を祈願して奉納された願文が残されている。 北条氏政は後北条氏の四代目。 祈願成就の際には鎌倉往還の船津の関所を廃止する旨が記され、富士信仰の街道であった鎌倉往還の便宜を図るものと考えられている。 1565年(永禄8年)に息女の病気平癒を祈願したものも残されており、北口本宮冨士浅間神社にはその写しが伝えられている。 この息女とは、織田信忠と婚約した松姫(信松院)だといわれている。 なお、1566年(永禄9年)に冨士御室浅間神社で行われた「大般若経真読会」は、信玄の嫡男義信の室となった今川義元息女の病気平癒祈願だったと考えられるのだという。 |
7年に一度の御開帳![]() |
60年に一度の祭礼![]() |
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