鎌倉手帳(寺社散策)

武田信玄

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 武田信玄は、甲斐源氏の嫡流「武田家」の19代当主(初代は信義)。

 甲斐源氏は新羅三郎義光を祖とする清和源氏。

 1521年(大永元年)11月3日、武田信虎の子として誕生。

 母は大井夫人。

 1541年(天文10年)、父信虎を駿河国へ追放し19代当主となる。


武田信玄


 家督を継いだ信玄は信濃侵略を開始、諏訪頼重、大井貞隆、高遠頼継、藤沢頼親を滅ぼした。

 その後も信濃国守護の小笠原長時、北信濃の戦国大名村上義清を攻略し、信濃をほぼ平定する。

 そして、村上義清らの要請を受けた越後国の戦国大名上杉謙信と川中島で対決することとなる。

 謙信との戦いは1553年(天文22年)から1564年(永禄7年)まで続けられ、その戦いは計5回に及んだという(川中島の戦い)。


川中島古戦場
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(長野市)


 1566年(永禄9年)には上野国に侵攻し上野西部を領国化、1568年(永禄11年)には駿河国へ侵攻し今川氏真を追放して駿河を領有した。

 その後小田原の北条氏と対立するが、1571年(元亀2年)に北条氏政と和議が成立。

 1572年(元亀3年)には、織田信長との対立が始まり、10月、将軍足利義昭の上洛要請もあって甲府を発ち、三方ヶ原で信長と連合する徳川家康を破り侵攻を続けたが、翌年4月12日、三河国の野田城を包囲中の陣中で病に倒れ、甲府へ帰る途中の信濃国伊那谷(いなだに)で亡くなった(53際)。


恵林寺
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(信玄の菩提寺)
武田信玄の墓
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(恵林寺)

武田神社
武田神社
(躑躅ヶ崎館址)







長男:義信

 1538年(天文7年)誕生。母は三条の方。

 1550年(天文19年)、13歳で元服し、今川義元の娘を正室とした。

 1564年(永禄7年)、傅役(かじづきやく)の飯富虎昌らが信玄暗殺を企てたことから処刑、義信も東光寺に幽閉され、1567年(永禄10年)10月19日自刃(武田義信の墓)。


東光寺
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(甲府五山)



四男:勝頼

 1564年(天文15年)誕生。母は信玄が滅ぼした諏訪頼重の娘。

 正室は織田信長の養女(姪)である遠山夫人。

 1573年(元亀4年)、信玄の死により家督を相続するが、1575年(天正3年)、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗。

 1582年(天正10年)3月11日、信長の侵攻によって遠山夫人の生んだ信勝、継室の北条夫人(北条氏康の娘)とともに天目山で自害した。

 これにより甲斐武田家は滅亡した。



長女:黄梅院

 1543年(天文12年)誕生。母は三条の方。

 武田・今川・北条の甲相駿三国同盟のために、1554年(天文23年)に北条氏康の嫡男・氏政に嫁いだ。

 冨士御室浅間神社には、信玄が黄梅院の安産祈願のために奉納したという願文が残されている。

 氏政との間には嫡男の氏直を出産するが、1568年(永禄11年)、信玄が駿河に侵攻すると三国同盟は破綻し、黄梅院は甲斐国に送り返された。

 1569年(永禄12年)6月17日死去。



五女:松姫

 1561年(永禄4年)誕生。母は油川夫人。

 北口本宮冨士浅間神社には、信玄が松姫の病気平癒を祈願したという願文の写しが残されている。

 1567年(永禄10年)、勝頼に嫁いだ織田信長の養女・遠山夫人が死去したことから、武田家は織田の同盟関係を保つため、信長の嫡男信忠と松姫との婚約を成立させるが、1572年(元亀3年)に信玄と信長が対立すると婚約も解消された。

 武田氏滅亡後、八王子に逃れていた松姫のもとに信忠の使者が訪れるが、信忠は1582年(天正10年)6月2日の本能寺の変で自刃。同年、松姫は出家し信松尼と称して武田一族と信忠の菩提を弔ったという。

 1616年(元和2年)4月16日死去。



六女:菊姫
 1563年(永禄6年)誕生。母は油川夫人。

 勝頼が、1573年(元亀4年)の長篠の戦いに敗北したことにより、武田家は信長に対抗するため、1579年(天正7年)、上杉景勝と甲越同盟を結び、菊姫が景勝に嫁いだ。

 1604年(慶長9年)3月16日、上杉家の伏見屋敷で亡くなった。



〜善光寺と武田信玄〜

 1558年(永禄元年)、戦火(川中島の戦い)によって信濃善光寺の焼失をおそれた武田信玄は、本尊善光寺如来と多くの寺宝を山梨郡板垣郷に移した。

甲斐善光寺
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(甲府市)
信濃善光寺
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(長野市)



武田信玄像
武田信玄像
(甲府駅前)






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