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1561年(永禄4年)、上杉謙信(長尾景虎)は、九万を超える軍勢を擁して小田原の北条氏康を攻めた。 小田原城を包囲した謙信だったが、氏康の背後で武田信玄が信濃への軍事行動を開始したことから鎌倉へ撤退したのだという。 しかし、謙信が越後から出てきたのには、小田原を攻める他に目的があった。 それは「関東管領職」を相続し、鶴岡八幡宮を参拝して「拝賀の儀」を行うことだった。 一説によれば、小田原を攻めたのは、「拝賀の儀」のときに氏康に襲撃されるおそれがあったため、氏康を牽制したのだという。 上杉憲政から関東管領職を譲り受けた謙信は、「上杉」を称し、名も「景虎」から「政虎」に改めた。 鶴岡八幡宮で拝賀の儀が行われたのは3月26日か27日頃ではなかったといわれている。 |
※ | 関東管領は上杉氏が世襲していた職で、就任すると鶴岡八幡宮へ参拝するのが例になっていたという。 |
上杉謙信は、1530年(享禄3年)1月21日、越後国の守護代長尾為景の子として春日山城で誕生。 幼名は虎千代。 1543年(天文12年)8月15日に元服、長尾景虎と名乗る。 1548年(天文14年)に家督を相続。 1561年(永禄4年)3月には山内上杉家の家督を相続して上杉政虎と名を改め、同年12月には将軍足利義輝の一字を賜り、諱を「輝虎」と改めた。 謙信を名乗るのは1570年(元亀元年)になってからのこと。 |
長尾氏は、鎌倉権五郎景政を祖とする平氏といわれ、平良文を祖とする坂東八平氏にも数えられる。 本拠は鎌倉郡長尾庄。 |
御霊神社 (長尾城址:横浜市栄区) |
長尾定景一族墓 (鎌倉:久成寺) |
二代当主長尾定景は、1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると大庭景親につき、石橋山の戦いでは岡崎義実の子佐奈田(真田)与一を討ち取った。 『吾妻鏡』によれば、頼朝に捕らえられた定景は岡崎義実に預けられ、翌年、義実の申し入れにより助命された。 その後は三浦氏の家臣となり、1219年(建保7年)には、三浦義村の命を受け、源実朝を暗殺した公暁を討ち取っている。 |
佐奈田霊社 (石橋山古戦場) |
源実朝公御首塚 (秦野市) |
長尾氏は、 1247年(宝治元年)の宝治合戦で定景の子景茂が三浦泰村に味方して敗れ、長尾城も北条時頼に攻められ滅亡。 生き残った景茂の子・景忠の子孫は、鎌倉時代後期頃から上杉氏に仕えるようになり、戦国大名・上杉謙信へと繋がっていく。 |
上杉謙信は、武田信玄、北条氏康、織田信長といった戦国大名と戦い、特に信玄との川中島の激戦は知られている。 その一方で塩のみちを断たれた信玄に塩を送ったという逸話も残されている。 謙信の旗印「毘」は信仰していた毘沙門天の毘。 自ら毘沙門天の生まれ変わりと称していたという。 1578年(天正6)3月13日、春日山城で死去(享年49)。 |
鶴岡八幡宮は、1063年(康平6年)に源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請して創建した鶴岡若宮を前身とし、1180年(治承4年)に源頼朝が現在地に遷した。 以後、武家の都「鎌倉」の中心に置かれ、長く武家の崇敬を集めた。 |
鎌倉市雪ノ下2−1−31 0467(22)0315 鎌倉駅東口より徒歩10分 |
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