北条氏康は北条氏綱の子。
1541年(天文10年)、父氏綱の死によって家督を継ぎ小田原北条氏(後北条氏)三代当主となった。
関東の平定を目指す氏康は、1546年(天文15年)の河越夜戦(かわごえよいくさ)で、義弟の綱成と連携し扇谷上杉氏を滅亡させ、関東攻防の主導権を握った。
1554年(天文23年)には、駿河の今川義元、甲斐の武田信玄と同盟関係を結び、背後の脅威にさらされることなく関東平定へ専念している。
しかし、1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると今川氏の勢力が衰退し、世の情勢に変化が生じる。
翌年3月には上杉謙信が小田原城を包囲し、氏康は窮地に立たされた。
しかし、謙信は小田原城を落城させるには至らず鎌倉に兵を引いた。
このとき謙信は鶴岡八幡宮で山内上杉家の家督と関東管領職を相続している。
謙信の撤退の理由として、武田信玄の信濃侵攻があったのだという。
以後謙信は農業の端境期になると関東侵攻を繰り返したというが、氏康は武蔵・上野の回復に成功し、再び関東における攻防の主導権を握った。
1566年(永禄9年)に隠居した氏康は、戦いを子の氏政らに任せていたが、1568年(永禄11年)には武田信玄が駿河に侵攻。
これによって三国同盟が破棄
信玄に駿府を占領された今川氏真(氏康の娘婿)は、遠江国の朝比奈泰朝の居城・掛川城へ逃れた。
氏康は氏真を支援するため氏政を派遣してら武田軍と対峙。
翌年、遠江に侵攻していた徳川家康が掛川城を開城させると、氏康は家康と氏真を再び駿河の国主とするという盟約を結び、信玄を退去させている。
氏真は北条家に預けられるが、そんな中の1571年(元亀2年)10月3日、小田原城で亡くなっている。 |