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佐奈田霊社は、石橋山の戦いで先陣を切って討死した佐奈田与一義忠を祀る社。 与一は、三浦義明の弟岡崎義実の嫡男。 真田の地(現平塚市)を領していた。 1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で源氏再興の挙兵をした源頼朝は、目代山木兼隆を討って相模国へ進軍し、8月23日、石橋山に布陣。 先陣を命じらた与一は、郎党文三とともに、たった15騎で俣野五郎景久75騎と戦い討死したのだと伝えられている。 石橋山古戦場には、のちに与一塚が建てられ、与一を霊神とする佐奈田霊社が建てられた。 与一が「たん」がからんで声が出ず、そうこうしているうちに敵に討たれてしまったという伝承にちなんで、「たん・咳・ぜんそく・声」に霊験があるとして知られている。 |
石橋山の戦いで先陣を切った佐奈田与一義忠は、俣野五郎景久を組み伏せ、とどめを刺そうとするが、血糊で短剣が抜けず、五郎の加勢に駆けつけた長尾定景の手にかかり討死した。 朗党文三も奮戦の末、稲毛重成の手勢に討たれた。 |
佐奈田与一と一騎打ちを演じた俣野五郎景久は、大庭景親の弟。 現在の横浜市戸塚区から藤沢市を領していた(参考:大庭氏)。 |
佐奈田与一を討ち取った長尾定景は、現在の横浜市戸塚区の長尾を領していた。 のちに源実朝を暗殺した公暁を討ち取ることとなる(参考:久成寺 長尾城址)。 戦国武将・上杉謙信の先祖といわれる。 |
与一が討死した場所は「ねじり畑」と呼ばれ、ここで穫れる作物はねじれてしまうのだという。 |
石橋山の戦いと佐奈田与一義忠と文三 |
石橋山古戦場には、佐奈田与一義忠の郎党陶山文三家康を祀る堂も建てられている。 |
『吾妻鏡』によると、石橋山の戦い後、源頼朝は二所詣の途中で石橋山に立ち寄り、義忠と文三の墓を見て涙を流したのだという。 二所詣は、走湯山(伊豆山神社)・箱根山(箱根神社)の二所権現と三嶋社(三嶋大社)へ参詣する行事で、1188年(文治4年)から始められた。 当初は「鎌倉→走湯山→三嶋社→箱根山→鎌倉」という経路だったが、1190年(文治6年)に「鎌倉→箱根山→三嶋社→走湯山→鎌倉」と変更されている。 初めに走湯山を参ると、頼朝が途中の石橋山で佐奈田与一義忠とその郎党文三の墓を見て涙を流してしまうため、参詣の案内人が「参詣途中には殊に慎むべき」と指摘したことにより経路が変更されたのだとか・・・ |
天徳寺真田尊 (平塚市) |
証菩提寺 (横浜市) |
天徳寺(真田尊)は、真田城址に建てられた曹洞宗の古刹。 証菩提寺は、源頼朝が義忠(与一)の菩提を弔うために建てたという寺院。 |
先陣を切って討死した佐奈田与一義忠〜石橋山の戦い〜 法華経を読み続けた長尾定景〜石橋山の戦い〜 |
石橋山の戦いで敗れた源頼朝は、山中に逃れた後、真鶴から安房へ船出した(参考:源頼朝船出の浜 源頼朝上陸地)。 |
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