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横浜市戸塚区俣野町にある俣野観音堂は、俣野景久の守護仏といわれる「十一面観音」が安置されている。 俣野景久は、大庭氏の一族で現在の横浜市戸塚区と藤沢市にまたがる俣野郷を領した武将。 兄大庭景親とともに伊豆国に挙兵した源頼朝に敵対し、「石橋山の戦い」では、佐奈田与一義忠との死闘を繰り広げた。 その後、頼朝が鎌倉に入り、「富士川の戦い」で平氏を敗走させると、兄景親は降伏し片瀬で処刑されたが、景久は逃亡の末、平維盛に合流し、加賀国で討死した。 観音堂の十一面観音は、死を覚った景久が母の待つ故郷俣野に送ったものと伝えられている。 |
1176年(安元2年)、伊豆国に流されていた源頼朝を慰めるための「狩猟」が奥野(現在の伊東市)で催され、その折の余興で相撲が行われた。 相撲の名手といわれた俣野景久は21連勝。 最後の挑戦者は力自慢の河津祐泰。 河津祐泰は、連勝の俣野景久を、のちに「河津掛」と呼ばれる技で破ったという。 参考:東林寺(伊東市) |
※ | 俣野景久を破った河津祐泰は、その帰路、工藤祐経に殺害されている。 この事件は1193年(建久4年)の富士裾野の巻狩りの際に起こった「曾我兄弟の仇討ち」へと発展する。 |
伊東市の東林寺には、日本相撲協会による相撲碑が建てられている。 |
大庭氏は、大庭御厨を開発した鎌倉権五郎景政の一族(参考:村岡御霊神社)。 俣野郷も大庭御厨の一部だった。 藤沢市西俣野にある御嶽神社は鎌倉権五郎景政や俣野景久が信仰したと伝えられ、神明社は鎌倉権五郎景政が伊勢神宮より持ち帰った材木で建てられ、三浦義澄が社殿を改修したと伝えられている。 |
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大庭景義館址![]() (茅ヶ崎市) |
大庭景親館址![]() (藤沢市) |
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時宗総本山の遊行寺の開基・俣野五郎景平は、景久の末裔といわれる。 開山の呑海は景平の弟とも。 遊行寺に俣野大権現として祀られている。 |
横浜市戸塚区俣野町 JR東海道線「藤沢駅」・小田急線「湘南台駅」から バス、「俣野観音堂前」下車 |
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