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河津祐泰は、工藤氏の流れをくむ伊豆の豪族。 伊東祐親の嫡男。 仇討ちで知られる曽我兄弟の父。 1176年(安元2年)10月、奥野(伊東市)で催された源頼朝を慰めるのための巻狩りの帰路、工藤祐経に殺害された。 血塚は、祐泰が落命したと伝えられる場所に、後年、供養のために建立されたのだと伝えられ、宝篋印塔は南北朝期のものと考えられている。 |
1.嫡孫が不満を持つ家督相続 |
河津祐泰も工藤祐経も藤原南家の流れをくむ工藤氏の6代目・工藤祐隆から分かれた家系。 祐隆は、伊東荘・宇佐美荘・河津荘などを領していたが、嫡男の祐家が早世すると、後妻の連れ子との間に生まれた祐継に本領である伊東荘・宇佐美荘を相続させ、嫡孫に当たる伊東祐親に河津荘を相続させた。 本領を相続した祐継の子が工藤祐経。 |
2.伊東祐親が工藤祐経の所領を横領 |
本領を相続した工藤祐継だったが早世してしまう。 幼い子の祐経には伊東祐親が後見人に付き、その後、元服した祐経は、祐親の娘・万劫を娶り、上洛して平重盛に仕えた。 しかし・・・ 祐経が京にいる間、祐親が伊東荘を横領、妻の万劫も取り上げて土肥遠平に嫁がせてしまう。 祐経は何度も訴訟を起こしたというが、伊東荘は返ってこなかった。 |
3.工藤祐経が河津祐泰を殺害 |
1176年(安元2年)、源頼朝を慰めるための巻狩りの後、伊東祐親の嫡男・河津祐泰が工藤祐経に殺害されるという事件が発生。 |
祐泰は、祐経に命じられた大見小藤太と八幡三郎に射殺されたのだという。 2人は近くの「椎の木三本」で待ち伏せをしていたのだ伝えられている。 |
祐泰が殺害された後、妻(横山時重の娘)は子の十郎と五郎を連れて曽我祐信と再婚。 この十郎と五郎が、のちに仇討ちを決行する曽我兄弟。 |
4.曽我兄弟の仇討ち |
1193年(建久4年)、源頼朝が催した富士裾野の巻狩り。 曽我兄弟の仇討ちはその時に決行された。 5月28日夜半、雷雨の中、河津祐泰の子・曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟が、裾野に建ち並んだ宿舎に忍び込み、工藤祐経を殺害。 その後、十郎祐成は仁田忠常に討ち取られ、五郎時致は捕えられて処刑された。 十郎祐成22歳。 五郎時致19歳。 |
工藤祐経の墓 (富士宮市) |
曽我兄弟の墓 (富士宮市) |
流人の源頼朝を慰めるための巻狩りは、伊豆国・相模国・駿河国などの武士が集り、三日三晩にわたって催されたのだという。 余興の相撲では、名手といわれた俣野景久が21連勝。 最後の挑戦者は河津祐泰。 祐泰は、連勝の俣野景久を、のちに「河津掛」と呼ばれる技で破ったのだという。 |
伊東家の菩提寺・東林寺には、1959年(昭和34年)、日本相撲協会によって相撲碑が建てられている。 |
椎の木三本 |
頼朝の馬蹄石 |
伊豆急「伊豆高原駅」から徒歩30分 JR「伊東駅」からバスで40分 |
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