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曽我兄弟の菩提所城前寺から約20分ほど歩いた山の中腹にある宝篋印塔は、「祐信さんの供養塔」と呼ばれてきたもの。 高さ220センチメートルの大きなもので小田原市の重要文化財に指定されている。 曽我祐信は、仇討ちで知られる曽我兄弟の養父。 |
曽我祐信は、曽我荘の武将(生没年不詳)。 1176年(安元2年)、所領争いから工藤祐経に暗殺された河津祐泰の忘れ形見、一萬と筥王の養父。 1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、祐信は大庭景親について頼朝に敵対するが、のちに御家人となり1184年(元暦4年)には一ノ谷の戦いに加わっている。 |
※ | 一萬と筥王は、のちに仇討を成就させる十郎祐成と五郎時致。 二人は母の満江御前が祐信と再婚したため曽我の里に移ってきた。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1189年(文治5年)正月9日に行われた弓始め式で、祐信は10名の射手のうち一番手として出場している。 また、1193年(建久4年)5月に催された富士裾野の巻狩りでは、頼朝の嫡子頼家が鹿を射止めたときの功績により、鞍馬と直垂を賜った。 |
「小田原梅まつり」で催される流鏑馬は、祐信が弓馬の達人だったことから始められたイベント。 |
1193年(建久4年)、富士裾野の巻狩りの際に起こったのが、祐信の養子となっていた祐成・時致兄弟による仇討ち事件(5月28日)。 兄弟は見事に父の仇である工藤祐経を討ち取ったが、祐成は仁田忠常に討ち取られ、時致は捕えられて処刑された。 このとき祐信は兄弟に同意した証拠はないとして許され、6月7日には鎌倉へ帰る頼朝から帰郷を許され、曽我荘の年貢を免除されている。 |
報復の連鎖〜曽我兄弟の仇討ち〜(okadoのブログ) |
城前寺は曽我城があった場所に建てられた寺。 1193年(建久4年)、父の仇を見事に討った曽我兄弟は、母の再婚相手であった曽我祐信のもとで成長した。 |
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