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三 浦 義 澄

編集:yoritomo-japan.com







三浦義澄
三浦義澄:『前賢故実』より
〜国立国会図書館デジタルコレクション〜


 三浦義澄(よしずみ)は、三浦氏の一族で三浦義明の次男。

 1159年(平治元年)の平治の乱では源義朝に従い、平重盛との待賢門の戦いでは源氏十七騎の一人として活躍。

 1164年(長寛2年)、兄の杉本義宗が死去したことにより三浦氏の家督を継いだ。

 1180年(治承4年)、以仁王が全国の源氏に平家打倒の令旨を発すると、大番役の帰りに伊豆国源頼朝を訪れている。

 千葉常胤の六男胤頼も一緒だったというが何が話し合われたのかは不明。

 8月17日、頼朝が挙兵すると、一族とともに石橋山へと駆けつけるが間に合わず、引き上げる途中の由比ヶ浜で平家方の畠山重忠と合戦となり、父の義明を失った(小坪・衣笠合戦)。


衣笠城址
リンクボタン衣笠城址
(横須賀市)

三浦義明墓
リンクボタン三浦義明墓
(鎌倉来迎寺)
満昌寺三浦義明墓
リンクボタン三浦義明墓
(横須賀満昌寺)


 衣笠城を落ちた義澄は、安房国へと渡って頼朝と合流し、10月7日に鎌倉入りを果たす。

 富士川の戦いでは、敗走した平家軍を追って一気に上洛しようとする頼朝を、上総広常千葉常胤とともに関東の統一が先と主張して諦めさせたのだという。

 その後も一ノ谷の戦い壇ノ浦の戦いで武功を挙げ、奥州征伐では千葉常胤が献上した源氏の白旗二幅を、鶴岡八幡宮で七日間の加持祈祷を受けるよう命じられている。

 1192年(建久3年)、鶴岡八幡宮で行われた頼朝の征夷大将軍の辞令交付では、義澄が辞令を受け取った。

 1199(建久10年)1月13日に頼朝が死去。

 1月20日には嫡男の頼家が家督を相続するが、4月12日になると頼家の訴訟親裁が停止され、宿老13人による合議制によることが決定される。

 義澄もその一人に加わった。

 1200年(正治2年)1月23日、死去(享年74)。

 義澄らの連判状によって鎌倉を追放された梶原景時が駿河国で討ち取られてから3日後のことだった。







三浦義澄の墓
リンクボタン三浦義澄の墓
(横須賀市:薬王寺跡)

 薬王寺は、和田義盛が父義宗と叔父義澄の菩提を弔うために建立した寺だった。



〜妻の父・伊東祐親〜

 義澄の正室は、石橋山の戦いで頼朝に敵対した伊東祐親の娘。

 富士川の戦いで捕らえられ、義澄に預けられた。

 義澄の嘆願によって助命された祐親だったが、1182年(養和2年)2月14日、相模国の義澄邸で自ら命を絶ったのだという。


鐙摺山
リンクボタン鐙摺山
(葉山町)

 『吾妻鏡』では義澄邸で自刃したという祐親だが、葉山町史によると、鐙摺山で処刑されたのだという。



〜三浦次郎義澄〜

 1192年(建久3年)、頼朝征夷大将軍に任じられると、勅使より辞令を受け取る役を仰せつかった義澄。

 勅使から名を尋ねられ「三浦次郎義澄」と答えたのだという。

 頼朝より「三浦介」という官職を与えられているにもかかわらずこのように答えたのは、「国からは正式な辞令をもらっていなかったから」なのだとか。


鶴岡八幡宮
リンクボタン鶴岡八幡宮

 『吾妻鏡』によると、征夷大将軍の辞令交付は、7月26日には勅使が到着して鶴岡八幡宮で行われた。


相模の武将 三浦一族







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