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材木座の来迎寺は源頼朝が三浦義明の菩提を弔うために建てた能蔵寺を前身としている寺院。 墓地には、頼朝の挙兵時に衣笠城で最期を遂げた三浦義明と、その孫で由比ヶ浜で命を落とした多々良重春の五輪塔が建てられている。 本堂裏手には三浦一族の五輪塔が並んでいる。 |
1180年(治承4年)8月22日、三浦義明は、源頼朝の挙兵に合わせて一族を衣笠城から出撃させるが、折からの雨による増水によって酒匂川を渡ることができず、石橋山の戦いに間に合わなかった。 8月24日、頼朝の敗北を知った三浦軍は、衣笠への帰路に着くが、その途中の由比ヶ浜で大庭景親に従軍するために出撃してきた畠山重忠と遭遇してしまう。 ただ、義明と重忠とは姻戚関係にあり、とくに重忠の母が義明の娘であったことから、お互いの了解の上で一戦を交えず、「三浦軍は衣笠に引き上げ、重忠はただそれを見とどける」という形をとったのだという。 ところが、杉本城にいた三浦一族の和田義茂は、三浦軍が重忠に追われていると勘違いをして、重忠を攻めたことから事態が一変し、小坪口での合戦へと発展してしまう。 三浦軍はその居城である衣笠城に辿り着いたものの、8月26日には重忠が一族の江戸氏や河越氏を率いて衣笠城を攻めたため、義明は、子義澄らを逃し、自らは死を選んだ。 義明は、城を出る義澄らに、 「源家累代の家人として、幸せなことに貴種再興の時に出会えた。 わしの歳は80を越えているので、先は幾らでもない。 今、この命を頼朝様に捧げて、子孫の勲功としたい。 お前達は急いで退去し、頼朝様を尋ねよ。 わしは、城に残り、河越重頼に多勢の兵がいるように見せかける」 と言ったのだという。 翌8月27日、義明は、河越重頼と江戸重長の軍に討ち取られた (城内で自刃しのだとも。)。 |
小坪・衣笠合戦 |
三浦義明墓 (横須賀満昌寺) |
玉藻前(たまものまえ)に化けて鳥羽院をたぶらかし、正体が見破られて那須野で成敗された白面金毛九尾の狐。 その退治を命ぜられたのが三浦大介義明と上総介広常。 初めは狐の術にはまってしまったが、義明の矢が命中し、広常が刀でとどめを刺した。 しかし、狐はその後巨大な石と化し、近づく人や鳥獣がみな死んでしまったため、殺生石と名付けられ恐れられたという。 那須野の狐退治と殺生石 |
京都の真如堂にある鎌倉地蔵は、殺生石を打ち砕いた源翁禅師が、砕かれた石で彫った像なのだという。 |
鎌倉市材木座2−9−19 0467(22)4547 鎌倉駅東口から徒歩20分 九品寺循環バス「五所神社」下車徒歩5分 |
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