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千葉常胤は、亥鼻城を築いた常重の子(1118年(元永元年)5月24日誕生)。 千葉氏の中興の祖といわれる。 |
千葉氏は、平良文を祖とする坂東八平氏のうちの一つ。 |
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良文の孫忠常は房総平氏の祖で、母は平将門の娘。 両平氏と呼ばれた上総広常と千葉常胤はその子孫。 |
将門塚 (東京千代田区) |
神田明神 (東京千代田区) |
1135年(長承4年)に家督を相続し、父常重が伊勢神宮に寄進した相馬御厨の経営を引き継いだ。 相馬御厨は、国主の藤原親通や源義朝らの乱入があり、度々脅かされてきた。 1156年(保元元年)の保元の乱で、常胤は義朝に従っているが、相馬御厨の支配権維持のためという見方もある。 しかし、1159年(平治元年)の平治の乱で義朝が平清盛に敗れ、平家の政権下になると、相馬御厨は佐竹義宗に奪われてしまう。 |
亥鼻城(いのはなじょう・千葉城)は、千葉常重が築いた城。 常重は、上総国に平忠常が築いた大椎城(現在の緑区大椎町)を本拠としていたが、1126年(大治元年)、下総国に本拠を移した。 以後、亥鼻城は、13代にわたって千葉氏の拠点となった。 |
1180年(治承4年)4月、以仁王が全国の源氏に平家打倒の令旨を発すると、常胤の六男胤頼は、大番役の帰りの6月、伊豆国の源頼朝を訪れている。 このとき、三浦義澄も一緒だったというが、何が話し合われたのかは不明。 そして、8月17日、頼朝が挙兵。 石橋山の戦いに大敗を喫してしまった頼朝だったが、安房国へ渡って再挙。 常胤は、9月17日に300騎を率いて参陣した。 頼朝に鎌倉を本拠とすることを進言したのは常胤だといわれ、先鋒を畠山重忠、殿(しんがり)を常胤がつとめた大軍が10月7日、鎌倉に入った。 10月21日の富士川の戦いでは、敗走した平家軍を追って一気に上洛しようとする頼朝を、上総広常・三浦義澄とともに関東の統一が先と主張して諦めさせたのだという。 直後の佐竹氏討伐では、佐竹氏から相馬御厨を取り戻している。 |
鎌倉入りを進言した千葉常胤 2万騎で参陣した上総広常 鎌倉と源氏 |
その後も、木曽義仲の追討に従軍、源平合戦では源範頼に従軍して一ノ谷の戦いなどで活躍した。 1189年(文治5年)の奥州征伐では、新調した源氏の白旗二幅を献上。 常胤が旗の作製を命じられた理由は、頼朝の挙兵時に、常胤が参陣してから次々と諸国の軍勢が参陣したという目出度い先例があったからなのだという。 1201年(建仁元年)3月24日死去(84歳)。 |
蓮乗院は、光明寺の支院。 弁谷に屋敷があった常胤の檀那寺であったといわれ、本尊の阿弥陀如来は常胤の守護仏だったのだという。 |
君待橋の碑 |
お茶の水 |
千葉寺 |
大日寺 |
源頼朝の正月三が日は、御家人の饗応を受ける日。 御所で将軍を饗応する行事を「?飯」(おうばん)と呼ぶが、常胤は何度も担当している。 |
智満寺は、流人の頼朝が参籠して源氏再興を祈願したという古刹。 1189年(文治5年)、常胤は頼朝の命により本堂を再建したのだという。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 日胤は、園城寺(三井寺)の僧。 伊豆に流されていた源頼朝に頼まれて千日間の石清水八幡宮参籠をしていたが、六百日目に宝殿から金の兜を賜わる夢をみた。 「所願が成就する証拠だ」と思っていると・・・ 翌朝、以仁王が園城寺に入ったことを耳にする。 日胤は弟子の日恵にあとを頼んで以仁王のもとに参陣したが・・・ 1180年(治承4年)5月26日、以仁王とともに光明山の鳥居の前で平家軍に討ち取られた。 その後、日恵は千日の参籠を終えて、1181年(治承5年)5月8日に鎌倉の頼朝に報告したのだという。 |
石清水八幡宮 (八幡市) |
園城寺 (大津市) |
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