鎌倉手帳(寺社散策)

弁  谷
崇寿寺跡


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弁谷の碑


 光明寺の北、補陀洛寺の東側の谷は、弁ヶ谷(べんがやつ)と呼ばれる。

 千葉氏の屋敷があったところで、千葉常胤を「弁ヶ谷殿」といったことから弁ヶ谷という地名がついた。

 弁ヶ谷には、1321年(元享元年)、北条高時が建てた崇寿寺があった。

 開山は南山子雲。

 禅寺で五山・十刹に次ぐ格式である「諸山」に列せられ、崇寿寺に諸山を与えたのが最古といわれている。

 明治末から大正にかけての弁ヶ谷は、別荘地となり、夏目漱石も避暑に訪れていたという。





☆伝説!蟹の恩返し☆

 弁ヶ谷の畑の中には「蟹の宮」と呼ばれる祠があった。

 子どもたちが捕まえた紫色の大きな蟹を、かわいそうだからといって土地の百姓が海に放してやった。

 すると、この蟹が、ある旱りの年に、この百姓の畑だけに雨を降られてくれた。

 以後、雨乞いの参詣者が訪れるようになったという。

 祠は明治末頃まであったという。



〜源頼朝が建てた最宝寺〜

 弁ヶ谷には、1195年(建久6年)、源頼朝が建てた天台宗の最宝寺があって、行基の薬師如来が本尊だったという。

 その後、浄土真宗に改宗され、小田原北条氏による浄土真宗への弾圧で、鎌倉から横須賀の野比に移転したと伝えられている。

 ※弾圧によって鎌倉に残った浄土真宗の寺は、小袋谷の成福寺のみ。



最後の奉公
長崎高重と崇寿寺南山和尚


 1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞稲村ヶ崎を突破し鎌倉に乱入してくると、北条高時の御内人長崎高重は、高時に覚悟を決めるよう伝え、「高重が一戦して帰ってくるまで自害はしないように」といって東勝寺を出ていく。

 高重は義貞に挑む前に崇寿寺に立ち寄り、南山和尚に「武士とな何か」を問い、「武士とは刀を頼って進む以外な」という教えを受け、笠符(かさじるし)をはずし、義貞の首のみ狙って新田軍になだれ込んだが、義貞を討つことはできず、高時の待つ東勝寺に戻った。

 高重は、人々に自害をすすめ、自らが自害してみせたと伝えられている(参考:鎌倉幕府の滅亡 南山和尚の泥牛庵(六浦))。


 長崎高重は、当時鎌倉幕府を牛耳っていた内管領長崎高資の二男。

 笠符とは、敵味方が区別できるよう付けるもので、高重は新田軍に紛れ込んで義貞を討とうとしたと伝えられている。


鎌倉幕府滅亡

新田義貞の鎌倉攻め








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