|
宝戒寺裏の「東勝寺橋」を渡ると、新田義貞の鎌倉攻めによって敗れた北条高時とその一族を含む約870名が自刃した「東勝寺跡」がある。 東勝寺は、開山は退耕行勇、開基は三代執権北条泰時と伝わる。 1237年(嘉禎3年)12月13日、泰時が母の墳墓の傍らに堂宇を建て、追善供養を行ったのがはじまりとする説もあるが定かではない。 1323年(元亨3年)、円覚寺で行われた九代執権北条貞時の十三回忌供養には、東勝寺の僧侶53人が参列したといわれている。 1333年(元弘3年)、幕府滅亡の際には、北条一族が火をかけ全焼したが、その後復興され、関東十刹の一つに数えられていた。 廃寺となった時期は不明。 手前を流れる滑川は、東勝寺の濠の代わりになっていたと考えられている。 |
開山の退耕行勇は、真言宗を学び鶴岡八幡宮寺の供僧となった。 のちに栄西について臨済宗を修め、壽福寺二世となっている。 東大寺の第三代大勧進職にも就いた。 |
1333年(元弘3年)、倒幕を企て隠岐に流されていた後醍醐天皇が、伯耆国の船上山で倒幕の挙兵をした。 幕府は足利高氏(尊氏)を京へ派遣するが、高氏は幕府を裏切り六波羅探題を攻め滅ぼした。 一方、上野国では新田義貞が討幕の挙兵。 義貞が稲村ヶ崎を突破し、鎌倉に侵攻したことによって、得宗の北条高時をはじめとする北条一族は東勝寺に退き、そこで自刃した。 『太平記』によると、東勝寺での死者は870余人に及んだという。 |
北条貞将は金沢貞顕の嫡男。 『太平記』によると、新田義貞が鎌倉攻めの際、幕府軍の大将として戦ったが、巨福呂坂で敗れると東勝寺の高時を訪れ最後の挨拶をしたという。 そのとき、高時から最後の褒美として、六波羅探題の両探題職と相模国の守護職を与えられたといわれている。 |
鎌倉幕府滅亡時に東勝寺の住職だった信海和尚は、本尊大日如来を救い出し、逗子市池子に東勝寺を建立したと伝えられている。 |
新田義貞が稲村ヶ崎を突破し鎌倉に乱入してくると、北条高時の御内人長崎高重(内管領高資の子)は、高時に覚悟を決めるよう伝え、「高重が一戦して帰ってくるまで自害はしないように」といって東勝寺を出ていく。 高重は義貞に挑む前に崇寿寺に立ち寄り、南山和尚に「武士とな何か」を問い、「武士とは刀を頼って進む以外ない」という教えを受け、笠符(かさじるし)をはずし、義貞の首のみ狙って新田軍になだれ込んだが、義貞を討つことはできず、高時の待つ東勝寺に戻った。 高重は、人々に自害をすすめ、自らが自害してみせたと伝えられている(参考:鎌倉幕府の滅亡)。 |
東勝寺で自刃した北条高時の首は「腹切やぐら」に葬られたと伝えられるが、実際は、釈迦堂ヶ谷奥やぐら群(釈迦堂切通付近)に葬られたと考えられている。 |
釈迦堂ヶ谷やぐら群の発掘調査で発見された五輪塔の地輪。 |
宝戒寺の背後から東勝寺跡の谷を「葛西ヶ谷」と呼ぶが、鎌倉御家人葛西氏の館があったことから呼ばれるようになったといわれている。 初代葛西清重は、石橋山の戦い後、源頼朝に従った武将。 |
腹切やぐらから先は、八雲神社までのハイキングコース。 途中、妙本寺へも下りることができる。 |
山王ヶ谷から隧道を抜けて大町へ行くことができる静かな散歩道。 |
鎌倉市小町 鎌倉駅東口から徒歩15分 |
大きい地図を見るには・・・ 右上のフルスクリーンをクリック。 |
|