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1333年(元弘3年)5月18日、新田義貞が鎌倉攻めを開始。 本隊は仮粧坂、大舘宗氏と江田行義の部隊が極楽寺坂、堀口貞満と大島守之の部隊が巨福呂坂から攻め込んだ。 翌19日には、大館宗氏が極楽寺坂を突破。 しかし、宗氏が稲瀬川で討たれると、兵が片瀬・腰越まで退いてしまう。 それを聞いた義貞は、仮粧坂から極楽寺坂へ。 |
『太平記』によると・・・ 5月21日夜半、片瀬・腰越を廻って極楽寺坂へ向った義貞が敵陣を見ると・・・ 北は切通しまで山高く険しい路で、大仏貞直を大将とする幕府軍数万が陣を並べていた。 南は稲村ヶ崎で、砂の上の路は狭く、波打ち際まで柵が設けられ、海上には大船が並べられ、側面から射ようと待ち構えている。 この状況では、味方が引き下がったのも当然と考えた義貞は、馬から下り、兜を脱いで、海上の遥か遠くを伏し拝み、龍神に誓願。 「伝え聞くところ、日本を創られた伊勢神宮天照大神は、広い海の龍神として現れたと聞いております。 後醍醐天皇は天照大神の子孫として、逆臣のために西海の波の上に漂っておられます。 今、義貞は臣下の道を尽くすために、逆臣征伐に臨んでおります。 その志は、ひとえに、世の中をよくし、人民を安心させることです。 龍神八部衆にお願い申し上げますことは、臣の忠義を推量され、潮を遠くに引かせ、全軍に道を開いていただきますこと」 と祈念した義貞は、腰の黄金作りの太刀を抜いて、海中に投げ入れた。 すると、その太刀を龍神が受け入れたのか、にわかに稲村ヶ崎の潮が引いて干上がり、砂浜が広がった。 側面から射ようと待ち構えていた幕府軍の数千の兵船も、潮に流されて、遥か沖で漂っている。 これを見た義貞は、 「後漢の弐師将軍が、城中の水が尽きたときに刀を抜いて岩石に刺すと、勢いよく泉が湧き出したという。 神功皇后が新羅を攻めたときには、潮を引かせる霊力がある干珠を海中に投げ入れると、潮が遠く退いて戦いに勝つことができたという。 これらは日本と中国の吉例。 めでたいことの前兆として起こる不思議な現象が今起きた。 進めや兵どもよ」 と下知したのだという。 そして、江田・大館・里見・鳥山・田中・羽河・山名・桃井をはじめ、越後・上野・武蔵・相摸の軍勢六万余騎が、稲村ヶ崎の干潟を真っすぐに駆け通り、鎌倉に乱れ入った。 |
生品神社の新田義貞像は、稲村ケ崎で龍神に祈り、太刀を海に投じる光景を表したもの。 |
「なげ入れしつるぎの光あらはれて千尋の海も陸となりぬる」 稲村ケ崎には、明治天皇の歌碑が建てられている。 |
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