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七里ヶ浜から鎌倉へと通じる古代からの道は、稲村ヶ崎先端を通っていた(「稲村路」)。 1180年(治承4年)、北条政子が鎌倉に入るときも「稲村路」を通ったものと考えられ、1198年(建久9年)、源頼朝が相模川の橋供養に出掛けたときも「稲村路」を通ったものと考えられる。 『吾妻鏡』には、1252年(建長4年)、宗尊親王が鎌倉に入るときに「稲村路」を通ったことが記されている。 『海道記』は「稲村路」の様子を、「険しい岩が重なり横たわる狭い間を伝わり進むと、岩に当たって打ち上げる波が花のように散りかかる」と記している。 後に、その不便さを解消するため、極楽寺の開山忍性が切り開いたとされるのが「極楽寺切通」。 しかし、開かれた時期は定かではない。 現在の「極楽寺切通」は、その旧状を留めていないが、かつては、成就院の山門前を寺とほぼ同じ高さで通っていたという。 「極楽寺切通」は、鎌倉から七里ヶ浜、腰越、片瀬を抜けて東海道へと通じ、京都への出発点となっていた。 |
鎌倉の古道 鎌倉七口 鎌倉七口MAP 童謡・唱歌「鎌倉」に歌われた切通 |
1333年(元弘3年)、新田庄生品神社で討幕の挙兵をした新田義貞は、鎌倉を巨福呂坂、仮粧坂とこの極楽寺切通の三方から攻めた。 極楽寺切通の攻防では、大仏(北条)貞直が守り、新田軍の大舘宗氏が討死している(参考:十一人塚 稲瀬川)。 極楽寺切通を攻める際、新田義貞が布陣したのが稲村ヶ崎の聖福寺であったといわれている。 5月21日、新田義貞は稲村ヶ崎から鎌倉に突入。 翌22日、東勝寺に籠っていた北条高時以下の北条一族が自刃したことにより、鎌倉幕府は滅亡した。 |
稲瀬川 |
十一人塚 |
新田軍の大舘宗氏は、極楽寺坂を突破するが、稲瀬川付近で北条軍の反撃に遭い宗氏以下11人が討死。 十一人塚は戦死した11人を葬った所と伝えられる。 宗氏を討ったのは、北条貞直の勘気を蒙って出仕を禁止されていた本間山城左衛門。 宗氏を討った後、「これで多年の御恩に報いることができました」 といって切腹したのだという。 |
伝上杉憲方墓 |
成就院からの海 |
虚空蔵堂 (鎌倉十三仏) |
星ノ井 (鎌倉十井) |
極楽寺切通上方の成就院は「アジサイ」の名所です。 |
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