|
稲瀬川は、長谷から由比ヶ浜に注ぐ川で、源頼朝が鎌倉入りした当時は、この川が鎌倉の境界になっていたものと考えられている。 1180年(治承4年)、北条政子が秋戸郷から鎌倉に入るときには、日の調整のため、この辺りの民家に滞在した。 1184年(元暦元年)に平家を討つために出陣した源範頼を頼朝が見送ったのも、1185年(文治元年)に後白河法皇から送られた源義朝と義朝に仕えた鎌田政長(政清)の首を持った使者を出迎えたのもこの地だったという(参考:勝長寿院跡 本蓮寺(片瀬))。 |
源平合戦:源範頼の出陣 |
稲瀬川は、1333年(元弘3年)、新田義貞軍の大将大舘宗氏が討死した場所。 |
討死した大舘宗氏以下十一人が葬られたのが稲村ガ崎にある十一人塚。 |
『万葉集』には、「ま愛しみ さ寝に我は行く 鎌倉の 美奈の瀬川に 潮満つなむか」と鎌倉の歌が載せられているが、「美奈の瀬川」というのは、稲瀬川のことだといわれている。 『万葉集』は、日本に現存する最古の歌集。 |
1180年(治承4年)8月、石橋山の戦いに間に合わなかった三浦軍と畠山重忠の軍が由比ヶ浜で遭遇した。 この合戦で重忠が陣を取った場所が稲瀬川河口だったと伝えられている(参考:小坪合戦と衣笠合戦)。 |
稲瀬川のほとりには、願行が開いたとされる道場「安養院」があったといわれている。これが大町の安養院の始まりともいわれている。 北条政子が建てたとされる笹目の長楽寺も安養院の始まりとされているが、その関係は定かではない。 |
長楽寺跡 |
安養院 |
鎌倉に泉涌寺派の法燈を伝えた願行 |
河竹黙阿弥作の歌舞伎。 「稲瀬川勢揃いの場」から「いなせ」という言葉が生まれた。 |
鎌倉幕府の成立当初、鎌倉の西の境界は、北条政子が鎌倉に入るときや、その他の源頼朝の行動からみて、稲瀬川だったと考えられている。 |
1224年(元仁元年)、三代執権北条泰時が四角四境祭(陰陽道に基づく除災の儀式)を修するときには、東は六浦、南は小坪、西は稲村、北は山内で行われたことから、このときには、稲村ヶ崎まで鎌倉の範囲が拡大したものと考えられる。 また、1235年(嘉禎元年)の四角四境祭の際には、巨福呂坂(山内)・小坪・六浦・片瀬を四境として儀式が行われていることから、稲村ヶ崎からさらに片瀬まで拡大したものと考えられる。 |
四角四境祭〜鎌倉:北条泰時の政策〜 |
塔ノ辻から由比ヶ浜への古道 極楽寺切通 星の井通り |
鎌倉市長谷2丁目 江ノ電「長谷駅」から |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|