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1333年(元弘3年)、討幕の挙兵をした新田義貞は、次々に幕府軍を破り鎌倉に迫った。 鎌倉は三方を山で囲まれた天然の要害で、攻め込むことのできるのは、鎌倉七口と呼ばれる切通。 戦いは5月18日から始まった。 義貞は、極楽寺切通からの攻撃を大舘宗氏に命じた。 一方、幕府は、極楽寺切通に大仏(北条)貞直を配置して防備に当たった。 激戦の末、宗氏は極楽寺切通を突破したが、稲瀬川付近で北条軍に反撃され、宗氏以下11人が討死にした(稲村ヶ崎を突破した可能性も・・・)。 この11人が葬られたとされるのが「十一人塚」。 十一面観音を安置して11人の霊を弔ったのだと伝えられている。 |
『太平記』によれば、大舘宗氏が討死したのは5月19日。 それから2日後の5月21日未明、新田軍は稲村ヶ崎を突破して東勝寺を攻め、翌22日、北条高時を自刃に追い込んだ。 |
十一人塚には、塚を包むように大きな松が枝を広げていた。 その松は、おもしろいことに一本として枝が十文字に重なって見えなかった。 大舘宗氏以下十一人が腹を十文字に切ったからなのだという。 |
宗氏を討ったのは本間山城左衛門。 大仏(北条)貞直の家臣で、貞直の勘気を蒙って出仕を禁止されていたが、宗氏を討ち取って 「多年の御恩に報いることができた」 として切腹したのだという。 |
極楽寺切通の防備にあたっていた大仏(北条)貞直は、新田軍が稲村ヶ崎を突破すると、宗氏に代わって采配を取った脇屋義助(義貞の弟)の陣になだれ込んで戦死。 |
1959年(昭和34年)の極楽寺橋付近の造成工事で発見された鎌倉時代の武士のものと見られる人骨の一部が、この石の下に埋葬されているという。 |
鎌倉市稲村ガ崎1丁目 江ノ電「稲村ヶ崎」より徒歩5分 |
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