鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉のアジサイ 鎌倉あじさい物語



鎌倉幕府を滅ぼした武将
新 田 義 貞


編集:yoritomo-japan.com








新田義貞像


 新田義貞は上野国新田荘の武将。

 河内源氏の源義国を祖とする新田氏本宗家の八代目棟梁。

 父は新田朝氏。

 生年は1301年(正安3年)頃と考えられている。



新田義貞誕生地
リンクボタン伝新田義貞誕生地
(台源氏館跡:太田市由良町)

 義貞は、四代棟梁の新田政義が築いた台源氏館で誕生したのだと伝えられている。

 ただ、諸説あるので誕生地は不明と言った方がいいのかもしれない。





〜冷遇されていた新田氏〜

 新田氏は、新田義重から始まる源氏の名門。

 しかし、同じ源義国を祖とする足利義兼源頼朝の御門葉として、また、北条時政の娘婿として有力御家人の地位を得たのに対し・・・

 義重は頼朝の挙兵の際に事の成行きをうかがって去就を決しなかったことで頼朝から嫌われる存在となったといわれる。

 その後も足利氏は北条得宗家と姻戚関係を結び信頼を得てきたが、新田氏は冷遇されていた。

 そのため、義貞が家督相続した頃には、先祖の義重が開発した広大な新田荘のうちのわずか数郷を所有するのみとなっていたらしい。

 義重の四男義季(徳川氏・世良田氏)が創建した長楽寺を再建するときも所領の一部を売却したのだという。



浄妙寺
リンクボタン浄妙寺
(鎌倉)

 浄妙寺は、足利義兼が建立した極楽寺を前身とする寺。

 鎌倉五山第五位。


円福寺
リンクボタン円福寺
(太田市)

 円福寺は、幕府に無断で出家した四代棟梁の新田政義が創建した寺。

 新田氏は政義の無断出家で没落することに。


長楽寺
リンクボタン長楽寺
(太田市)

 長楽寺は、徳川氏の祖とされる新田義季が創建した寺院。

 江戸時代には、境内に徳川家康を祀る東照社(世良田東照宮)が建てられている。



リンクボタン新田義重と里見義成
(頼朝の麾下に入らず八尾城に籠って軍兵を集めた新田義重と、頼朝の下に参じた里見義成)





〜鎌倉幕府打倒の決意〜

 1324年(正中元年)と1331年(元弘元年)、後醍醐天皇は天皇親政を実現するため倒幕を企てるが失敗。

 しかし、倒幕の気運は高まり、1332年(元弘2年)には、倒幕計画に加担した楠木正成が河内国で挙兵。

 大番役で京都にいた義貞は、北条高時の命により河内国へ出陣し、千早城の戦いに参戦するが・・・

 翌1333年(元弘3年)3月、金剛山の搦め手を攻めていた義貞は、突然、新田荘に帰還する。

 『太平記』によると・・・

 義貞は倒幕のための兵を挙げたいが、勅命を得なければどうにもならない。

 そこで義貞は、正成と呼応して吉野を本拠として挙兵した護良親王の令旨を得ようと考えた。

 執事の船田義昌が護良親王の下へ赴き持ち帰ってくるのだが・・・

 それは、令旨ではなく後醍醐天皇の綸旨だったのだとか。

 喜んだ義貞は、病と偽って本国に帰ったのだという。



葛原岡神社
リンクボタン葛原岡神社
(鎌倉)
日野俊基墓
リンクボタン日野俊基の墓
(鎌倉)

 葛原岡神社は、1332年(元弘2年)の元弘の変で斬首された日野俊基を祀る社。

 俊基は、後醍醐天皇に仕えた朝臣。

 境内には俊基の墓がある。


大塔宮仰徳碑
リンクボタン大塔宮仰徳碑
(吉野山)
村上義光の墓
リンクボタン村上義光の墓
(吉野山)

 護良親王は後醍醐天皇の皇子。

 梶井門跡(現在の大原三千院)に入室し、天台座主(比叡山延暦寺の貫主)となってが大塔宮と呼ばれたが、還俗して倒幕運動に参戦。

 吉野山(吉野城)は、討幕の挙兵をした護良親王が本拠とした場所。

 大塔宮仰徳碑は、護良親王の功績を讃える碑。

 吉野山には護良親王の身代わりとって自刃した村上義光の墓がある。


生品神社
リンクボタン生品神社
(太田市)

 生品神社は、義貞が挙兵した社。








〜鎌倉攻め〜

 新田荘に帰還した義貞は、幕府の徴税の使者を殺害。

 これに対して幕府は所領を没収したのだという。

 これによって挙兵の決意を固めた義貞は、5月8日、生品明神(生品神社)で討幕の兵を挙げ、鎌倉を目指して出陣。

 小手指原の戦い・久米川の戦い・分倍河原の戦いで北条軍を破り、5月18日、巨福呂坂仮粧坂極楽寺坂の三方から鎌倉を攻めた。

 そして、5月21日、稲村ヶ崎から鎌倉への突入に成功して市中へ攻め入り、5月22日、北条高時をはじめとする北条一族を自刃に追い込んだ。

 鎌倉を陥落させた義貞は勝長寿院に本陣を敷き、義貞とともに戦った足利尊氏の子千寿王(のちの義詮)は永福寺に布陣し、戦後処理にあたった。

 ただ、鎌倉を陥落させた義貞(無官)より、5月7日に京都の六波羅探題を陥落させた尊氏(従五位上治部大輔)の人気の方が高く、武士たちは千寿王の下に集まってしまったのだという。

 6月、義貞は鎌倉を去り上洛するが、これによって鎌倉は足利氏が統治することになる。



稲村ヶ崎
リンクボタン稲村ヶ崎
(鎌倉)

 義貞が海に黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈願すると、潮が引き、海上の北条軍がはるか遠くに流されたため、稲村ヶ崎を突破できたのだとか。


鎌倉・九品寺
リンクボタン九品寺
(鎌倉)

 九品寺は、鎌倉に突入した義貞が本陣を置いた地。


東勝寺跡
リンクボタン東勝寺跡
(鎌倉)

 北条高時をはじめとする北条一族は、東勝寺に籠って自刃したのだと伝えられている。



鎌倉幕府滅亡


新田義貞の鎌倉攻め

稲村ヶ崎の奇跡〜龍神と黄金の太刀〜





〜後醍醐天皇に裏切られ・・・〜

 鎌倉幕府が滅亡すると、6月5日には後醍醐天皇が京都に還御し、建武の新政を開始するが・・・

 武家には指示されなかった。

 そうした中、1335年(建武2年)7月、北条高時の遺児時行が挙兵し鎌倉を占領するという反乱が起こる(中先代の乱)。

 足利尊氏は、時行討伐のため、後醍醐天皇の許しを得ずに東下し、鎌倉を奪還した。

 乱後、建武の新政を離脱する決意をして鎌倉に留まる尊氏に対し、朝廷は帰京を命じるが従わないため、11月8日、後醍醐天皇は義貞に尊氏追討の宣旨を発した。

 尊氏討伐のため出陣した義貞は、足利軍を破りながら鎌倉に向けて進軍したが、箱根竹の下の合戦に大敗。

 義貞を破った尊氏はそのまま入京して占領するが、翌1336年(建武3年)1月、陸奥から北畠顕家が上洛したことで形勢は逆転し、尊氏は九州に逃れた。

 ただ、尊氏はすぐに再挙し、光厳上皇の院宣を奉じて5月には湊川の合戦で義貞・楠木正成の軍を破り、6月には再び京都を制圧。

 後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃走した。

 義貞は東寺に陣を敷いた尊氏を攻めたが、京都を奪還することはできず、さらに、後醍醐天皇が尊氏の和平工作に応じたこともあり、後醍醐天皇の皇子・尊良親王と恒良親王を推戴して北陸へ下ることになる。

 義貞は日吉山王社(日吉大社)に立ち寄り戦勝祈願をして「鬼切」の太刀を奉納したのだという。

 一方、尊氏は光明天皇を擁立し、11月には「建武式目」を制定して室町幕府を開き、後醍醐天皇は12月に京都を脱出して吉野に南朝を興している。



髭切と膝丸〜源家重代の太刀〜

北条時政と名刀鬼丸



鎌倉・浄光明寺
リンクボタン浄光明寺
(鎌倉)

 足利尊氏は、浄光明寺後醍醐天皇を裏切る覚悟を決めたのだという。



吉野山:吉水神社
リンクボタン吉水神社
(吉野山)

 吉水神社は、後醍醐天皇・楠木正成・吉水院宗信法印をまつる社。

 後醍醐天皇は、ここに行宮を設けて居所したのだという。





〜 最 期 〜

 10月、後醍醐天皇の皇子・尊良親王と恒良親王を奉戴して越前国に入った義貞は、金ヶ崎城を拠点に再起を図る。

 しかし、1337年(延元2年)3月、金ヶ崎城が陥落し、尊良親王と長男義顕が自刃し、恒良親王は捕らえられて拘禁された。

 12月、吉野の後醍醐天皇の命を受けた北畠顕家が義良親王を奉じて陸奥国から西上するが、翌1338年(延元3年)5月22日、石津の戦いで討死。

 義貞は、閏7月2日、越前国藤島の灯明寺畷で戦死した(藤島の戦い)。

 38歳だったといわれている。

 『太平記』は、顕家と義貞が合流すれば勝機はあったと伝えているが、北畠軍の中には義貞に滅ぼされた北条高時の遺児・時行がいたため、合流は難しかったのかもしれない・・・。

 翌8月、足利尊氏は征夷大将軍に任じられている。


恒良親王は、源頼朝の異母弟阿野全成の子孫阿野廉子が産んだ。



金龍寺本堂
リンクボタン金龍寺
(太田市)

 金龍寺は、新田義貞の追善のために建立された寺。


増上寺大殿
リンクボタン増上寺
(東京都港区)

 のちに徳川将軍家の菩提寺となる増上寺を浄土宗の寺院に改宗し、寺名を改めた酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)は、義貞の娘が産んだのだと伝えられる。


新田義貞供養塔
リンクボタン新田義貞供養塔
(大津市:慈眼堂)

 慈眼堂は、徳川家康に仕えた天海の廟所。

 歴代天台座主の墓所に義貞の供養塔が建てられている。

 家康が新田氏の祖義重を先祖と称していたことに関係があるのかもしれない。



鎌倉幕府滅亡


新田義貞の鎌倉攻め

稲村ヶ崎の奇跡〜龍神と黄金の太刀〜







鎌倉:寺社・史跡巡り


鎌倉手帳
(鎌倉情報トップ)



鎌倉のアジサイ 鎌倉あじさい物語


紫式部 紫式部年表


鎌倉殿の13人 二代執権北条義時
特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編 特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編


徳川家康 日光東照宮