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日野俊基の墓
〜葛原ヶ岡:鎌倉〜

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日野俊基墓


 日野俊基は、後醍醐天皇に仕えた公家。

 1324年(正中元年)、後醍醐天皇の倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。

 この時、俊基は許されたが、資朝は翌年佐渡に流された。

 後醍醐天皇は、万里小路宣房を鎌倉へ派遣し、「告文」をもって弁明したことにより罪に問われなかった。

 「告文」とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったという。

 1331年(元弘元年)、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てるが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年6月3日、葛原ヶ岡で処刑された(元弘の変)。

 俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂の葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。

 同じ頃、佐渡に流されていた日野資朝も処刑され、後醍醐天皇は隠岐に流された。 



 「元弘の変」では、日野俊基以外にも北条氏調伏の祈祷をしたとして円観・文観・忠円といった僧も捕らえられている。

 円観は、鎌倉幕府滅亡後、宝戒寺の開山となった。


リンクボタン後醍醐天皇の倒幕計画と日野俊基(正中の変・元弘の変)

リンクボタン後醍醐天皇の討幕計画と宝戒寺開山の円観慧鎮(元弘の変)









日野俊基墓所碑


 日野俊基の家臣、後藤左衛門尉助光は、俊基の妻の手紙を持って鎌倉に来たが、幕府の警戒が厳しくなかなか渡せずにいた。

 処刑の日、俊基の乗り物が仮粧坂にさしかかったとき、役人に懇願してやっと渡すことができたという。

 『太平記』は処刑の様子を次のように記している。

 「俊基畳紙を取出し、頸の廻りを押拭い、其紙を推開いて、辞世の頌を書き給う。

 古来一句、無死無生、万里雲尽、長江水清と筆を差置きて、鬢の髪をなで給う程こそあれ、太刀影後に光れば、首は前に落ちけるを、自ら抱て伏給う」

 俊基は、

 「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん」

 という辞世の歌を残したといわれている。 





日野俊基墓
リンクボタン例祭
葛原ヶ岡の桜
リンクボタン葛原岡神社の桜


 日野俊基が斬首された翌1333年(元弘3年)、新田義貞は、巨福呂坂極楽寺切通、そして俊基の眠る仮粧坂から鎌倉を攻め、5月21日、稲村ヶ崎を突破。

 翌22日、東勝寺に籠もる北条高時ら一族を自刃に追い込んだ(参考:鎌倉幕府の滅亡)。

 明治時代になると、日野俊基は倒幕の功労者として評価され、1887年(明治20年)、日野俊基を祭神とする葛原岡神社が創建された。

 毎年6月3日の日野俊基の命日には、葛原岡神社の例大祭が執り行われる。

 参道の桜並木は、俊基顕彰行事の一環として1924年(大正13年)に植えられたものだという。



鎌倉幕府滅亡


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稲村ヶ崎の奇跡〜龍神と黄金の太刀〜









葛原岡神社
リンクボタン葛原岡神社

 葛原岡神社は、由比ヶ浜の鎮守。祭神は後醍醐天皇に仕えた朝臣日野俊基
 1887年(明治20年)、明治天皇によって忠臣顕彰のために創建された。 


鎌倉市梶原5−9−1
0467(45)9002

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