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仮粧坂は、鎌倉七口の一つに数えられ、鎌倉の重要な防禦拠点だった。 名の由来は、平家の首をこの坂で化粧したからとも、娼家があって化粧した女がいたからともいわれる。 新田義貞の鎌倉攻めの際には新田軍の主力が投入され、上杉禅秀の乱のときにも戦陣となった。 その一方で、曽我兄弟の弟五郎時致と梶原景季の遊女をめぐる恋物語の舞台ともなっている。 鎌倉から仮粧坂を越えれば、藤沢、戸塚を経て武蔵へ通じ、逆に鎌倉へ入ると武蔵大路、窟小路を経て鎌倉の中心部へ通じる。 1193年(建久4年)に源頼朝が催した入間野・那須野の巻狩は、仮粧坂を起点とする「上の道」が使われたと考えられている(参考:柄沢神社(藤沢))。 |
鎌倉の古道 鎌倉七口 鎌倉七口MAP |
幕府は、1251年(建長3年)、小町屋を指定し、大町、小町、米町、亀谷辻、和賀江、大倉辻、気和飛坂山上以外での商業が禁止した。 牛を小路につないではいけないことや小路の清掃も義務付けている(参考:小町屋の指定)。 当時の仮粧坂山上には、多くの家が建ち並んでいたことが窺える。 (※「気和飛坂」=「仮粧坂」というのが定説。) 曽我五郎時致は、ここで働く遊女少将に「逢うと見る夢路にとまる宿もかな 辛きわかれにまたもかえらん」という歌を贈ったのだという。 曽我五郎時致の恋物語 |
1289年(正応2年)、鎌倉にやって来た後深草院二条は、仮粧坂から見た鎌倉を「家々が階段のように重なり合って、袋の中に物を詰め込んだようである」と表現している。 |
鎌倉を訪れた後深草院二条・・・『とはずがたり』(okadoのブログ) |
仮粧坂の上は源氏山公園。そして葛原ヶ岡・大仏ハイキングコース。 |
景清窟 |
東大寺大仏殿 |
「景清窟」は、悪七兵衛と呼ばれ源頼朝暗殺を企てた平氏の侍大将平景清が幽閉されたとされる牢跡。 1195年(建久6年)、平景清は、東大寺の大仏殿の落慶供養に参列した源頼朝の命を狙ったと伝えられている。 特に転害門は、景清が隠れていたとして「景清門」とも呼ばれたという。 京都の石清水八幡宮に参拝した頼朝を狙ったとも伝えられ(景清塚)、清水寺にも景清の伝説が残されている(随求堂 朝倉堂)。 |
鎌倉の古道 |
紅葉・黄葉 |
鎌倉七口をはじめとする古道を紹介。 神社・仏閣巡りとは違う新たな鎌倉を発見できるかも・・・。 |
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