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鎌倉:浄光明寺

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浄光明寺


 浄光明寺 (真言宗泉涌寺派)は、源頼朝文覚に建てさせた堂がそのはじまりであるとも、頼朝の子といわれる島津忠久が建てた寺がそのはじまりともいわれている。

 1251年(建長3年)、北条長時(のちの六代執権)が開山に真阿を招いて再興し、「浄光明寺」とした。

 開山の真阿は没後、「真聖国師」号を賜っている。

 鎌倉幕府滅亡後は、後醍醐天皇の皇子成良親王の祈願所となる一方、浄土・華厳・真言・律の四つの勧学院が建てられ、四宗兼学の寺院となる。

 盛時には10の支院があったという。

 1335年(建武2年)、足利尊氏は、後醍醐天皇の意に逆らって鎌倉に下り、中先代の乱を平定したため、一時、浄光明寺に蟄居するが、弟直義に説かれ、ここで後醍醐天皇を裏切る覚悟を決めたといわれる。



リンクボタン鎌倉観音巡礼第25番札所

リンクボタン鎌倉地蔵巡礼第16番、第17番札所
網引地蔵矢拾地蔵

リンクボタン鎌倉十三仏第9番札所
(勢至菩薩(都市王))


開山 真阿(真聖国師)
開基 北条長時
本尊 阿弥陀三尊
鎌倉六阿弥陀


武家の古都・鎌倉









〜足利尊氏の願文〜

 1336年(建武3年)8月27日、足利尊氏は自筆の願文を京都清水寺に奉納している。

 内容は、「自分は仏の加護を賜り、今後の果報は弟の直義に与えていただきたい」といったもの。

 その前年、尊氏は、後醍醐天皇の意に逆らって鎌倉に下り、中先代の乱を平定したため、一時、浄光明寺に蟄居したという経緯もある。

 尊氏の願文奉納のきっかけは定かではないが、後醍醐天皇との戦いに勝利した時期の願文のため注目されているという。


リンクボタン中先代の乱と足利尊氏と清水寺に奉納した願文


怪僧文覚と源頼朝(okadoのブログ)

清水寺に奉納された足利尊氏の願文(okadoのブログ)





浄光明寺本堂
リンクボタン本堂
浄光明寺不動堂
リンクボタン不動堂



浄光明寺鐘楼
リンクボタン鐘楼
浄光明寺楊貴妃観音
リンクボタン楊貴妃観音



浄光明寺阿弥陀堂
リンクボタン阿弥陀堂
(仏殿)
浄光明寺収蔵庫
収蔵庫
リンクボタン阿弥陀三尊

リンクボタン地蔵菩薩
(矢拾地蔵)



浄光明寺大伴家墓所
リンクボタン大伴家墓所
浄光明寺観音堂
リンクボタン観音堂


 大伴家墓所には、代々鶴岡八幡宮の神主を務めた大伴家の墓塔が並んでいる。



浄光明寺網引地蔵
リンクボタン網引地蔵
冷泉為相の墓
リンクボタン冷泉為相墓


 冷泉為相は、平安時代に権勢を誇った藤原道長の子孫。

 源実朝の和歌の師・藤原定家の孫。



覚賢の五輪塔
リンクボタン覚賢五輪塔
北条守時の墓
リンクボタン北条守時の墓





浄光明寺敷地絵図
浄光明寺敷地絵図

 鎌倉時代末から南北朝時代にかけての浄光明寺の境内の建物・寺域や周辺の景観・屋敷などを詳細に伝える絵図。



浄光明寺ビャクシン
リンクボタンビャクシン
浄光明寺稲荷社
リンクボタン裏山の稲荷社





〜浄光明寺の近くにあった寺〜

新清水寺
リンクボタン新清水寺
東林寺跡
リンクボタン東林寺跡


法泉寺跡
リンクボタン法泉寺跡
新清凉寺跡
リンクボタン新清涼寺跡


 浄光明寺の周辺には、多宝寺東林寺など律宗の寺が並び、海蔵寺手前の清涼寺ヶ谷には、西大寺流律宗の叡尊が滞在したという新清涼寺釈迦堂があったと伝えられている。

 その他、鉄観音の伝説で知られる新清水寺や臨済宗の法泉寺も浄光明寺付近にあった。





花・景色

浄光明寺のスイセン
リンクボタンスイセン
浄光明寺の菩提樹
リンクボタン菩提樹

浄光明寺ヒガンバナ
リンクボタンヒガンバナ
浄光明寺のハギ
リンクボタンハギ


浄光明寺イヌマキ
リンクボタンイヌマキ








北条氏をめぐる鎌倉
(北条氏ゆかりの寺社・史跡)




浄光明寺
浄光明寺

鎌倉市扇ガ谷2−12−1
0467(22)1359

鎌倉駅西口から徒歩15分


リンクボタン鎌倉の真言宗の寺



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