鎌倉手帳(寺社散策)

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北条守時の墓
〜鎌倉:浄光明寺〜

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北条守時の墓


 北条守時は、鎌倉幕府の最後の執権(十六代)。

 北条氏赤橋流だったことから、赤橋守時とも呼ばれる。

 父は、浄光明寺の本尊・阿弥陀三尊を造立した北条久時。

 1326年(正中3年)3月、嘉暦の騒動によって十五代執権の金沢貞顕が辞任すると・・・

 4月24日、守時が第十六代の執権に就任。

 ただ、実権は得宗家に握られていた。



守時系図





〜妹の夫・足利高氏の裏切り〜

 守時の妹は、足利高氏(尊氏)に嫁いだ登子。

 1333年(元弘3年)、高氏は幕府の命によって、後醍醐天皇を中心とする倒幕勢力を鎮圧するため西国へ出発。

 『太平記』によると、高氏はこのときすでに幕府への反逆を決意していたのだという。

 鎌倉幕府を裏切った高氏は、5月7日、六波羅を陥落させた。

 妻登子と嫡子・千寿王(義詮)は鎌倉に人質として残されたが、高氏が天皇方に付くと鎌倉を脱出している。

 これにより、幕府内での守時の立場は悪化。

 守時も「裏切り者」として見られていたらしい。



〜新田義貞の挙兵と守時の最期〜

 高氏が六波羅を落とした翌日、上野国では新田義貞が倒幕の挙兵。

 5月18日、鎌倉攻めを開始した。

 守時は新田軍を迎え撃つため洲崎に出陣するが、幕府軍は敗退。

 侍大将の南条高直は、巨福呂坂まで退いて援軍を待つよう進言したが・・・

 「疑いをかけられては、しばらくも命を長らえるべきではない」

 と言って潔い死を選択したのだという。

 守時の死から4日後、鎌倉幕府は滅亡することとなる。



洲崎古戦場跡碑
リンクボタン洲崎古戦場跡
陣出の泣塔
リンクボタン陣出の泣塔


 1333年(元弘3年)5月、新田義貞の鎌倉攻めによって鎌倉幕府は滅亡。

 現在の寺分・梶原・山崎一帯は洲崎と呼ばれ、最後の執権赤橋守時が奮戦し討死した古戦場。

 寺分にある泣塔は、この戦いの戦死者を供養するために建てられという。




鎌倉幕府滅亡


新田義貞の鎌倉攻め

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北条氏をめぐる鎌倉
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浄光明寺
リンクボタン浄光明寺

 浄光明寺は、1251年(建長3年)、北条長時(のちの六代執権)によって再興された真言宗の寺。
 足利尊氏直義兄弟にゆかりのある寺でもある。


鎌倉市扇ガ谷2−12−1
0467(22)1359

鎌倉駅西口から徒歩15分



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