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後醍醐天皇は、1318年(文保2年)、花園天皇の譲位を受けて31歳で即位。 最初は父の後宇田法皇が院政を行っていたが、1321年(元亨元年)、後宇多法皇に代わり、天皇による「親政」を開始する。 |
鎌倉時代後半の皇位は、大覚寺統と持明院統という2つの皇室の系統があって対立していたが、鎌倉幕府は、後宇多法皇の要請により皇位継承についての仲裁を行っている(文保の和談)。 後醍醐天皇は大覚寺統。 |
1324年(正中元年)、後醍醐天皇による討幕計画が発覚し(「正中の変」)、後醍醐天皇の側近であった日野俊基、日野資朝が捕らえられ、俊基は許されるが、資朝は佐渡に流された(この時、後醍醐天皇への処分はなし。)。 後醍醐天皇はその後も討幕を企て、1331年(元弘元年)にはその計画が発覚し(「元弘の変」)、日野俊基は再び捕らえられ、後醍醐天皇は隠岐に流された。 捕らえられた俊基は、翌年、鎌倉の葛原ヶ岡で斬首され、「正中の変」で佐渡に流されていた資朝も斬首されている。 鎌倉幕府は持明院統の光厳天皇を擁立して即位させ、元号は正慶に改元された。 |
葛原岡神社 (鎌倉) |
日野俊基の墓 (鎌倉) |
葛原岡神社は、後醍醐天皇に仕えた朝臣日野俊基を祀る神社。 葛原岡神社には、斬首された日野俊基の宝篋印塔が建てられている。 |
後醍醐天皇が隠岐に流された後も、皇子の護良親王は楠木正成・赤松円心らとともに倒幕の活動を続け、1333年(元弘3年 /正慶2年)、後醍醐天皇も隠岐を脱出して船上山で挙兵。 幕府は、足利高氏(尊氏)を鎮圧に向かわせたが、高氏は天皇方に付き六波羅を陥落させ、上野国で挙兵した新田義貞が鎌倉を攻めたことによって、鎌倉幕府は滅亡した。 |
※ | 足利尊氏は、北条高時から一字をもらって高氏と称していたが、鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇より尊の字を授かり尊氏と称した。 |
六波羅探題跡
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稲村ヶ崎
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鎌倉の宝戒寺は、後醍醐天皇が北条一族の菩提を弔うため足利尊氏に命じて建立させた寺院。 |
鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、帰京して「建武の新政」を開始する。 しかし、古代的な天皇親政を理想とした後醍醐天皇の政治は、武家の不満を招いてしまう。 1335年(建武2年)、北条高時の遺児時行が鎌倉で反乱(中先代の乱)を起こすと、足利尊氏は勅許を得ないまま出陣して乱を鎮圧した。 これがきっかけとなって尊氏が建武の新政から離脱。 中先代の乱では、前年に尊氏と対立して鎌倉に幽閉されていた護良親王が尊氏の弟直義に暗殺されている。 |
鎌倉宮は、鎌倉に幽閉され悲運の最期を遂げた後醍醐天皇の皇子護良親王を祀る神社。 |
護良親王墓 (鎌倉) |
用堂尼の墓 (鎌倉) |
護良親王は、鎌倉幕府滅亡後には征夷大将軍に任ぜられたが、足利尊氏と対立し、1334年(建武元年)11月15日、鎌倉の東光寺に幽閉されていた。 後醍醐天皇の皇女用堂尼は、護良親王の菩提を弔うために鎌倉の東慶寺に入ったのだという。 |
1336年(建武3年)1月、入京した足利尊氏は後醍醐天皇を比叡山に退かせたが、北畠顕家らに攻められ一時九州に逃れた。 しかし、6月には光厳上皇を奉じて再び入京。 光明天皇を即位させて「建武式目」を制定し、室町幕府を成立させた。 これにより建武の新政は崩壊し、後醍醐天皇は花山院に幽閉されたのだという。 |
間もなく、花山院から脱出した後醍醐天皇は、密に吉野へ行幸。 自ら主宰する朝廷を開いたことにより、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。 どうにか劣勢を覆したい後醍醐天皇だったが、望みは叶わず、1339年(延元4年 / 暦応2年)8月16日、還御することなく崩御(宝算52)。 |
吉水神社 (吉野) |
天龍寺 (京都) |
吉野へ行幸した後醍醐天皇は、吉水院(現在の吉水神社)に行宮を設けて居所としたのだという。 天龍寺は、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために創建。 |
導きの稲荷 (吉野) |
御幸の芝 (吉野) |
金峯山寺の稲荷社は、後醍醐天皇を吉野へ導いてくれたという稲荷神を祀る。 |
如意輪寺は、後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願所とした寺。 陵墓は如意輪寺にある。 |
北畠顕家の鎌倉攻め 日の丸御旗〜源義経・北畠顕家・武田信玄・徳川家康が掲げた旗〜 |
後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願所とした寺。 |
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