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阿野全成は、源義朝の八男。 母は常盤御前。 頼朝の異母弟。 義経の同母兄。 1159年(平治元年)の平治の乱後、醍醐寺に預けられていたが、1180年(治承4年)8月17日、源頼朝が挙兵すると、関東へ下り、佐々木兄弟の助けを受けて渋谷重国のもとに匿われていた。 あまり知られていないが、頼朝の挙兵時には義経より先に駆けつけ、頼朝とともに鎌倉入りを果たしている。 その後、北条政子の妹保子(阿波局)を妻とし、駿河国阿野荘を与えられ「阿野」を名乗った。 保子が頼朝の二男実朝の乳母となったことから、実朝の養育係となりその地位を築いていく。 頼朝の死後の1203年(建仁3年)、北条時政の将軍実朝擁立の企てに加わり、将軍頼家への謀反を企てたが、5月19日、武田信光によって捕らえられ、常陸国に流され後の6月23日に誅殺された。 子の頼全(よりまさ)も7月16日に京都で誅殺されている。 頼家は、全成の妻阿波局の引き渡しも求めたが北条政子が拒否したのだという。 北条時政は、この年の9月、将軍頼家の外戚比企能員を暗殺し、一族を滅ぼした。 この事件によって頼家は修禅寺に流されている。 (参考:比企氏の乱 比企能員の暗殺・比企氏滅亡) |
千葉県習志野市の鷺沼城址は、頼朝と全成が対面した場所と伝えられている。 |
静岡県沼津市の大泉寺には、全成と嫡子時元のものと伝わる墓がある。 後醍醐天皇に仕えた阿野廉子は、全成の子孫と伝えられている。 |
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60年に一度の祭礼![]() |
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