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七里ヶ浜
〜鎌倉の海〜

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七里ヶ浜


 七里ヶ浜は、稲村ヶ崎から小動岬までの約2.9qの海岸。

 「七里」という名の由来は、「関東道でいう6町を1里」という勘定でいくと7里あるから」というのが『新編鎌倉志』による説らしい。

 2002年(平成14年)までは海水浴場としても賑わったが、現在は海水浴場は開設されていない。

 江ノ電車窓からの景色も人気の七里ヶ浜は、「日本の渚百選」に選ばれている。

 平家追討のため西国へ向かう源範頼が通った道。



リンクボタン童謡・唱歌「鎌倉」に歌われた浜。





ボート遭難碑
リンクボタンボート遭難碑

 1910年(明治43年)1月23日、七里ヶ浜の沖で逗子開成中学の生徒ら12人が遭難死した事故があった。

 稲村ヶ崎には、死んでも弟を抱きしめていた徳田勝治、武三兄弟を表したという慰霊碑が建てられている。

 以前は、行合橋のたもとに卒塔婆があったという。



西田幾多郎歌碑
リンクボタン西田幾多郎歌碑

 哲学者西田幾多郎は、稲村ヶ崎の姥ヶ谷に居住した。

 七里ヶ浜に建てられた歌碑には、「七里濱 夕日漂ふ波の上に 伊豆の山々果ししらずも」と刻まれている。 


 七里ヶ浜にあった歌碑は2019年の台風19号で歩道下の土砂が流出したことから撤去され、稲村ヶ崎に移されています。



行合橋
行合橋

 日蓮龍ノ口で処刑になりそうになったとき、急に雷雨が激しくなり、役人の太刀が折れるなど不思議な現象が起こった。

 そのため、龍ノ口からは幕府に知らせるための使者が、幕府からは処刑中止を知らせる使者が走った。

 江ノ電「七里ヶ浜駅」の近くを流れる「行合川」は、両方の使者が行き合った場所なのでそう呼ばれるようになったのだという。



日本バレエ発祥地
リンクボタン日本バレエ発祥の地

 ロシア革命から逃れるため日本に来たエリアナ・パブロバは、1924年(大正13年)から七里ヶ浜に住み、バレエの稽古場を開いた。

 日本に帰化し「霧島エリ子」と名乗る。

 そのため、七里ヶ浜は「日本バレエ発祥の地」とされている。

 1941年(昭和16年)、日本軍人慰問のため訪れた南京で亡くなった。

 慰霊は靖国神社に祀られた。










十間坂
リンクボタン十間坂
(新田義貞の古戦場)
日坂
リンクボタン日坂
(新田義貞の古戦場)


金洗沢
リンクボタン金洗沢
(頼朝設置の関所跡)
稲村路
リンクボタン稲村ヶ崎・
磯づたいの道


ハマヒルガオ
リンクボタンハマヒルガオ
(七里ヶ浜に自生する)
砂鉄の浜
リンクボタン砂鉄の浜
(砂鉄採取地)



夕陽
リンクボタン江の島


江ノ電と富士
リンクボタン江ノ電と富士


伊豆大島
伊豆大島










稲村ヶ崎
リンクボタン稲村ヶ崎
鎌倉海浜公園
リンクボタン鎌倉海浜公園
(稲村ガ崎地区)


鎌倉高校前駅
リンクボタン鎌倉高校前駅
小動岬
リンクボタン小動岬



七里ヶ浜

鎌倉に攻め入った新田義貞が使った道。





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七里ヶ浜のハマヒルガオ

ボート遭難の碑

日坂〜鎌倉高校前〜

七里ヶ浜

稲村ヶ崎・磯づたいの道

十間坂〜腰越〜

稲村路と霊山山(霊山ヶ崎)





鎌倉の海
リンクボタン鎌倉の海

 由比ヶ浜、材木座、坂ノ下、七里ヶ浜、腰越の5つの海岸。








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