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小町大路は、鶴岡八幡宮の参道若宮大路の東側を並行し、筋違橋から宝戒寺、本覚寺の門前を通り、大町大路を横断、乱橋を渡って材木座まで通ずる鎌倉の基幹道路だった。 小町大路の両側には、御家人の屋敷や商家が並んでいたものと考えらる。 日蓮がこの小町大路を中心に布教活動を行ったため、「辻説法通り」とも呼ばれている。 |
※ | 「小町大路」は、「小町通り」とは違います。 |
※ | 小町大路は筋違橋から夷堂橋までとする説もありますが、ここでは材木座まで紹介しています。 |
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宝戒寺後方にあるやぐら。 北条執権ゆかりの者の骨を納めたやぐらとされる。 |
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1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めによって、北条高時ら一族が東勝寺で自刃し、鎌倉幕府は滅亡した。 東勝寺は、北条泰時が退耕行勇を招いて開いた寺といわれるが、廃寺となった時期も含めて不明。 滑川は、東勝寺の濠の代わりになっていたと考えられ、東勝寺橋には青砥藤綱の伝説が残されている。 |
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小町の鎮守。 明治の神仏分離によって本覚寺の「夷三郎社(夷堂)」がここに遷された。 |
小町大路には、日蓮が辻説法を行ったということもあって日蓮宗の寺が並ぶ。 |
辻説法跡碑は、廃寺となった妙勝寺にあった「日蓮の腰掛石」を日蓮信者田中智学が現在の地に置き、辻説法跡の旧跡とした。 智学は、辻説法の旧跡は蛭子神社あたりと考えていたが、余地がなかったので現在の地を選んだという。 |
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日朝が日蓮の遺骨を分骨したことで東身延と呼ばれる。 「にっちょうさま」の名で親しまれている。 |
本覚寺の門前の夷堂橋(鎌倉十橋の一つ)を渡ると大町、本覚寺までが小町。 夷堂橋は、本覚寺の鎮守「夷三郎社(夷堂)」からこの名がついた。 下を流れる滑川は「夷堂川」と呼ばれている。 滑川は、胡桃川、坐禅川、夷堂川、炭売川、閻魔川と名を変えながら相模湾に注いでいる。 |
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鎌倉最古の厄除け神社。 新羅三郎義光が祇園八坂社を勧請した。 |
大町四ツ角(大町大路)を過ぎると、町屋跡碑と魚町橋がある。この辺りは鎌倉の中心的な繁華街であったと考えられる。 |
鎌倉十橋の一つ。 下を流れる逆川が海とは反対方向に流れていることからこの名がついた。 |
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源頼義が石清水八幡宮を勧請して創建。 |
水道路交差点 |
水道路 |
水道路は、鎌倉に水道が引ける以前に、横須賀の海軍のために引かれた水道の鉄管を敷設した路。 名越方面に進めば長勝寺がある。 |
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長谷川海太郎が新婚生活を送った寺。 |
妙長寺を過ぎると鎌倉十橋の一つ「乱橋」。 新田義貞の鎌倉攻めの際、北条勢がこの橋付近で乱れはじめたことからこの名がついたといわれる。 |
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源頼朝の御家人工藤祐経の屋敷跡。 |
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北条経時の創建。浄土宗の関東総本山。 |
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源頼朝による鶴岡八幡宮の造営の際、材木座海岸から引き上げられた木材が「鎌倉天王唄」を歌いながら境内まで運ばれた。 和賀江嶋は、1232年(貞永元年)に築かれた現存する最古の築港遺跡。 |
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