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源実朝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝と北条政子の次男。 比企の乱で兄頼家が失脚した後、三代将軍となった。 1219年(建保7年)正月27日、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式を終えた後、甥の公暁によって暗殺される(参考:源実朝の暗殺(源氏の滅亡))。 公暁は、三浦義村の家臣長尾定景によって成敗され、公暁が持ち去った実朝の首は、義村の家臣武常晴が拾い上げ、波多野氏を頼ってこの地に葬ったのだと伝えられている。 もとは、木製の五輪塔であったと伝えられ、その五輪塔は、現在、鎌倉国宝館に寄託されている。 |
ものいわぬ 四方のけだもの すらだにも あはれなるかなや 親の子をおもふ |
源実朝は歌人として知られ、家集に『金槐和歌集』がある。 首塚に建てられた歌碑は、『金槐和歌集』に載せられた一首で、実朝研究家で歌人の佐佐木信綱が揮毫した。 |
※ | 『金槐和歌集』の「金」は鎌倉の鎌の偏を表し、「槐」は大臣のことを表したものであることから、「鎌倉の右大臣の家集」という意味があるという。 |
源実朝を暗殺した公暁は、実朝の首を持って三浦義村の館に向うが、その義村によって討たれた。 武常晴は、長尾定景父子とともに追討を命ぜられ、実朝の首を手に入れることができたのだという。 その首を三浦氏と仲の悪かった波多野忠綱を頼って、この地に埋葬したのだと伝えられている。 ![]() |
公暁を成敗した定景は、戦国時代に活躍する上杉謙信の祖といわれ、現在の横浜市戸塚区を領していた(参考:長尾城址)。 鎌倉市植木の久成寺には長尾定景一族の墓がある。 |
甲斐善光寺の源実朝像は、暗殺後に造られたもので、実朝像としては国内最古の彫像。 |
金剛寺は、実朝の首が埋葬されたことがその始まりとされている。 |
波多野氏は、平安時代末から鎌倉時代にかけて相模国波多野荘(現在の秦野市)を本領とした。 佐伯経範を祖とし、平将門の反乱を鎮めた藤原秀郷の後裔だといわれている。 |
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源実朝公御首塚の前には田原ふるさと公園があります。 |
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7年に一度の御開帳![]() |
60年に一度の祭礼![]() |
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