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『金槐和歌集』は、3代将軍源実朝が編纂した家集。 「金」は「鎌倉」の鎌の字の「かねへん」を表し、「槐」には「大臣」という意味があることから、別名『鎌倉の右大臣(源実朝)の家集』と呼ばれています。 |
源実朝は、兄頼家が失脚したことによって12歳で征夷大将軍となりましたが、その実権は母の北条政子や叔父の北条義時に握られていました。 そのような中、実朝は和歌に感心をもち、藤原定家から「万葉集」を贈られて大いに喜んだといわれています。 そして、実朝が編纂した『金槐和歌集』は、1213年(建保元年)頃に成立したものと考えられています。 |
以下に紹介する歌は実朝の代表的な歌ですが、『金槐和歌集』に載せられていない歌も含まれています。 |
山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも |
後鳥羽上皇への恭順の意を表した歌。 関東大震災で倒壊した鶴岡八幡宮の二の鳥居の柱に彫られています(鎌倉国宝館前に建てられています。)。 |
大海の磯もとどろに寄する波破れて砕けて裂けて散るかも |
相模の海を歌った男性的なもので潔さや清らかさが伝わってくる歌です。 どこから見た海かは不明ですが・・・。 |
古寺のくち木の梅も春雨にそぼちて花もほころびにけり |
源頼朝が父の菩提を弔うために建立した勝長寿院の梅を詠んだ歌。 |
ちはやぶる伊豆のお山の玉椿八百万代も色はかはらし 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ 伊豆の国や山の南に出づる湯の速きは神の験なりけり 都より巽にあたり出湯あり名は吾妻路の熱海といふ |
いずれも伊豆・箱根の二所詣に出掛けたときに詠んだ歌です。 |
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時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ |
1211年(建暦元年)の洪水の被害に際して、「恵みの雨も過ぎると民は嘆くことになる」ので、雨を司る八大龍王に祈念して詠まれた歌です。 |
ものいはぬ四方のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子をおもふ |
親が子を愛する光景を詠んだ歌です。 秦野市にある実朝の御首塚に碑が建てられています。 |
世の中はつねにもがもななぎさこぐあまの小舟の綱手かなしも |
『小倉百人一首』に選ばれた歌。 「世の中が変わらないで欲しい」という実朝の思いが込められた歌です。 |
風さわぐをちの外山に雲晴れて桜にくもる春の夜の月 |
鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場に植えられている実朝桜の碑に載せられている歌です。 |
源実朝は、『新古今和歌集』の撰者藤原定家に師事しました。 『金槐和歌集』は『鎌倉右大臣家集』とも呼ばれ、定家から「万葉集」が贈られた1213年(建保元年)頃に成立した自撰のものと考えられています。 |
実朝は父頼朝を尊敬し、その言行を学ぶなど多くの御家人からは慕われていました。 十二所にあったという大慈寺は、実朝が父頼朝のへの感謝の意味で創建した寺だと伝えられています。 その一方で実朝には、貴族趣味的な側面がありました。 その貴族趣味は、政治の実権は自分にはなく、傀儡将軍であることを自覚していくにつれて大きくなっていったものと思われます。 実朝は、14歳から和歌をはじめ、1205年(元久2年)、京より『新古今和歌集』を取り寄せます。 1208年(承元2年)、17歳のときに疱瘡を患い「あばた顔」になってしまいます。 その顔を見られたくなかった実朝は20歳になるまでの3年間、一切外出をせず鶴岡八幡宮の参拝も止めてしまったといいます。 しかし、その間、和歌の道の精進を重ね、1209年(承元3年)、自らが作った和歌10首を『新古今和歌集』の撰者の一人だった藤原定家に送って批評を願っています。 1211年(建暦元年)には、水難に嘆く民衆を心配し、「時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ」という歌を詠んでいます。 1211年(建暦元年)に鎌倉を訪れた鴨長明は、度々実朝を訪問したといいます(長明は、頼朝の法華堂にも赴き「草も木も靡きし秋の霜消えて空しき苔を払う山風」と詠んでいます。) 実朝の歌は、強い実感を率直に表した「万葉調」のものが多く、藤原定家より贈られた『万葉集』がその基礎となっているようです。 |
荏柄天神社には、実朝の伝説が残されています。 1213年(建保元年)、泉親衡の謀反が発覚し、捕えられた者の中に渋川兼守という人物がいました(参考:和田合戦)。 兼守は謀反の罪を晴らそうと荏柄天神社に和歌十首を奉納します。 それをみた実朝は感動して罪を許したのだと伝えられています。 兼守がそのお礼にと架けた橋が、今も金沢街道に架けられている「歌ノ橋」なのだそうです。 |
出でて去なばぬしなき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな |
この歌は、実朝が暗殺された日に詠まれたと伝えられているもの。 1219年(承久元年)1月27日、実朝は、甥の公暁(兄頼家の子)によって暗殺されてしまいます(参考:源実朝の暗殺(源氏の滅亡))。 実朝が暗殺されたのは、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式後のことでした。 拝賀式に出掛けるとき、実朝はこの歌を詠んで、髪を結ってくれた者に髪の毛を与えて出て行ったと伝えられています。 「二度と戻れないことを知っていたのではないか?」と思わせる悲しい歌です。 『金槐和歌集』に載せられている歌ではありませんし、実朝が詠んだ歌であるという確証もありませんが、実朝の悲劇を伝える歌として知られています。 |
3月の「献詠披講式」は、和歌に優れた源頼朝と源実朝を偲んで行われる神事。 |
8月の「ぼんぼり祭」の最終日は、源実朝の誕生日。白旗神社で「実朝祭」が行われます。 「吹く風の涼しくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり」 |
10月28日には、白旗神社で源実朝の遺徳を偲ぶ「文墨祭」が行われます。 |
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60年に一度の祭礼![]() |
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