鎌倉手帳(寺社散策)

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鎌倉の禅僧

編集:yoritomo-japan.com








栄西
(えいさい(ようさい))

 我が国臨済宗の開祖。

 比叡山延暦寺で天台宗を学んだ後、二度にわたって宋に渡り「臨済禅」を修める。

 京都で布教活動をしていたが比叡山の反対に遭い鎌倉に下った。

 鎌倉においても禅僧として受け入れられたのではなく、祈祷僧として北条政子や二代将軍源頼家の帰依を受けた。

 1200年(正治元年)、壽福寺の開山となり、1214年(建保2年)には、三代将軍源実朝に自らの著書「喫茶養生記」を献上している。

 京都では二代将軍源頼家を開基として建仁寺を開いた。


栄西
リンクボタン栄西禅師坐像
喫茶養生記
リンクボタン喫茶養生記



壽福寺
リンクボタン壽福寺
京都建仁寺
リンクボタン建仁寺


栄西の喫茶養生記(okadoのブログ)

茶道と禅道(茶禅一致)〜建長寺の茶筅供養〜(okadoのブログ)





退耕行勇
(たいこうぎょうゆう)

 鶴岡八幡宮寺の供僧だった。源頼朝北条政子も帰依した高僧。

 浄妙寺の開山となり、のちに栄西に師事し臨済僧となる。

 壽福寺二世となり、勝長寿院大慈寺の別当も勤め、廃寺となった東勝寺の開山も勤めたと伝えられている。

 粟船御堂(常楽寺)でおこなわれた北条泰時の妻の供養では導師を勤めた。 


退行行勇
リンクボタン木造退耕禅師坐像






月峯了然
(げっぽうりょうねん)

 蘭渓道隆の弟子。
 真言宗の寺だった浄妙寺を臨済宗に改宗した。 





天岸慧広
(てんがんえこう)

 仏乗禅師。足利家時の帰依をうけ報国寺の開山に迎えられる。

 禅師の書いた「東帰集(とうきしゅう)」は、日本人の手によってまとめられた最初の偈頌集(漢詩集)とされている。  





夢窓疎石
(むそうそせき)

 伊勢の出身。高峰顕日に参じその法を継ぐ。

 後醍醐天皇の命によって、南禅寺に住し、鎌倉の浄智寺円覚寺に歴住する。

 瑞泉寺の開山となり、その瑞泉寺庭園は夢窓疎石が築いたもので、建長寺円覚寺の庭園とともに名勝に指定されている(参考:建長寺庭園 円覚寺庭園)。

 京都では天龍寺や西芳寺(苔寺)の庭園が夢窓疎石の築いたものとして知られている。

 頂相彫刻「夢窓国師坐像」は国重要文化財。著書に『夢中問答集』がある。
 (参考:円覚寺の塔頭黄梅院) 



夢窓国師坐像
リンクボタン木造夢窓国師坐像


南禅寺
リンクボタン南禅寺
(京都)
瑞泉寺
リンクボタン瑞泉寺

瑞泉寺庭園
リンクボタン名勝庭園
(瑞泉寺)
円覚寺黄梅院
リンクボタン黄梅院
(円覚寺)





心昭空外
(しんしょうくうがい)

 源翁禅師
 海蔵寺の開山。殺生石伝説の僧。


海蔵寺
リンクボタン海蔵寺
真如堂
リンクボタン真如堂
(京都・鎌倉地蔵堂)


殺生石の伝説〜三浦義明と上総広常と源翁禅師(okadoのブログ)





蘭渓道隆
(らんけい どうりゅう)


 中国宋の禅僧。33歳のときに来日。

 鎌倉では壽福寺に入った。その後、常楽寺に入り五代執権北条時頼の帰依を受け、建長寺の開山となる。

 一時、元の密偵との疑いをかけられ伊豆に逃れ、その時、修禅寺に入り臨済宗に改宗した。

 京都建仁寺壽福寺禅興寺(現在は支院の明月院のみがのこる。)などに住し、讒言により甲斐(東光寺)に流されたこともあったが、建長寺に戻り没した。

 没後、後宇多天皇より「大覚禅師」の号を賜る。

  (参考:建長寺の塔頭西来庵


蘭渓道隆像
リンクボタン蘭渓道隆像
(国宝)
法語規則
リンクボタン法語規則
(国宝)

常楽寺
リンクボタン常楽寺
建長寺
リンクボタン建長寺

建長寺梵鐘
リンクボタン梵鐘
(国宝)
開山忌
リンクボタン開山忌





智覚禅師
(ちがくぜんじ)

 圓應寺の開山。 





古先印元
(こせんいんげん)


 長壽寺の開山。
 (参考:建長寺の塔頭同契院





密室守厳
(みっしつしゅごん)

 明月院の開山。 





兀菴普寧
(ごったんふねい)

 中国宋の禅僧。

 蘭渓道隆の招きで来日し、五代執権北条時頼の要請により建長寺二世となった。

 本尊の地蔵菩薩が自分より下位であるとして礼拝しなかったという伝説が残されている。

 時頼が死ぬと間もなく中国に帰ってしまった。
 「兀庵」(ごったん)という名から「ごたごた」という言葉が生まれたという。



リンクボタン浄智寺の開山と開基
(開山も開基も複雑な寺)





大休正念
(だいきゅうしょうねん)

 中国宋の禅僧。

 八代執権北条時宗の招きで来日し、禅興寺、建長寺壽福寺円覚寺などに住した。

 浄智寺大慶寺を開創している。仏源禅師。

 (参考:円覚寺の塔頭蔵六庵





南洲宏海
(なんしゅうこうかい)

 浄智寺の開山。





覚山尼
(かくざんに)

 八代執権北条時宗の妻で有力御家人安達泰盛の妹。
 東慶寺の開いた。
 「覚山尼」の法名は無学祖元から受けたもの。
 東慶寺は尼寺として栄え縁切寺法が廃止されるまで多くの女性を救った。



リンクボタン覚山尼像





無学祖元
(むがくそげん)

 中国宋の禅僧。八代執権北条時宗の招きにより来日し、建長寺に住した。

 のちに円覚寺の開山となり、北条氏をはじめとする鎌倉武士の教化に努め、我が国臨済宗の基礎を確立した。

 法嗣に高峰顕日や規庵祖円おり、五山派の主流となった夢窓疎石は高峰顕日の法嗣。

 建長寺で没し、仏光国師の号を賜る。



リンクボタン仏光国師坐像
円覚寺
円覚寺

正続院
リンクボタン正続院
(円覚寺)
開山忌
リンクボタン開山忌


リンクボタン莫煩悩〜禅に求めた不動心:北条時宗と蒙古襲来〜

リンクボタン臨刃偈〜円覚寺開山・無学祖元(仏光国師)の逸話〜





高峰顕日
(こうほうけんにち)

 後嵯峨天皇の第二皇子。

 北条貞時北条高時の帰依を受け、浄妙寺浄智寺を経て建長寺第十四世となる。法嗣に夢窓疎石がいる。

 頂相彫刻「高峰顕日坐像」は国重要文化財。

 (参考:建長寺の塔頭正統院





東明慧日
(とうみんえにち)

 北条貞時の招きによって日本にきた曹洞宗の僧。

 禅興寺(現在は支院の明月院のみがのこる。)、壽福寺建長寺を経て円覚寺第十世となる。

 頂相彫刻「東明慧日坐像」は国重要文化財。

 (参考:円覚寺の塔頭白雲庵





清拙正澄
(せいせつせいちょう)

 十四代執権北条高時の招きで来日。

 浄智寺円覚寺建仁寺南禅寺に住持。亡くなる前に筆をとった七言の遺偈は国宝。

 (参考:建長寺の塔頭禅居庵





義堂周信
(ぎどうしゅうしん)

 夢窓疎石の弟子。足利基氏に招かれ鎌倉に入る。

 詩文集「空華集」は、絶海中津の「蕉堅稿」と並んで五山文学の代表的なもの。







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