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寿福寺の「木造栄西禅師坐像」は、鎌倉時代のもので県の文化財(鎌倉国宝館に寄託)。 一木割矧ぎ造、像高60.4p。 頭頂が平らでかなり長い頭をしているいわゆる「栄西頭」をした像。 |
寿福寺開山の栄西(明庵栄西)は、比叡山延暦寺で天台宗を学んだ後、2度にわたって宋に渡り臨済禅を学んだ。 帰国後、京都で禅を広めようとしたが、比叡山延暦寺の反対に遭い鎌倉に下ってきた。 ただ、鎌倉においても禅僧として迎えられたというより、祈祷僧として北条政子や二代将軍源頼家の帰依を受けていた。 したがって、栄西が開山に迎えられた寿福寺も、当初は、天台・真言・禅の道場として開かれている。 頼家が開基となって栄西が開いた京都の建仁寺も寿福寺と同じく、天台・真言・禅の三宗兼学だった。 1215年(建保3年)7月5日、建仁寺で没(享年75歳)。 栄西没後の寿福寺には、弟子の退耕行勇ほか、蘭渓道隆、大休正念などの高僧が入り、七堂伽藍を供え、塔頭も14を数えたという。 |
※ | 『吾妻鏡』では、6月5日に寿福寺で入滅とされているが、7月5日に建仁寺で入滅したことが証明されている。 |
臨済宗開祖の栄西と鎌倉 (活動記録) |
建仁寺 |
恵美須神社 |
京都五山第三位の建仁寺は栄西が開いた寺。 創建にあたって鎮守として建立されたのが恵美須神社。 |
栄西は、奈良東大寺を再建した重源の跡を継いで、1206年(建永元年)、東大寺二代目の大勧進職に任じられている。 それより前の1195年(建久6年)には、宋の天台山から持ち帰った菩提樹を東大寺に移植しているという。 東大寺の国宝梵鐘が吊されている鐘楼は栄西が再建したもの。 東大寺に奉納した「栄西自筆唐墨筆献上状」は国重文。 |
東大寺 |
鐘楼 |
南都焼討と東大寺の再興〜重源と源頼朝〜 |
東大寺の復興:重源と鎌倉の禅僧栄西・行勇(okadoのブログ) |
栄西は、東大寺の大勧進に任じられるとともに、1208年(承元2年)の落雷で焼失した法勝寺の九重塔再建の大勧進にも任じられている。 九重塔は1213年(建保元年)に完成しているが、栄西が法勝寺再建にかかりきりだったことから東大寺の復興は進まなかったのだという。 |
法勝寺は1076年(承保3年)に白河天皇によって創建され、皇室から厚い保護を受けていた(応仁の乱後廃絶)。 |
高野山の金剛三昧院は、北条政子の発願で源頼朝を供養するために建てられた禅定院をはじまりとする寺院。 開山供養には栄西が招かれた。 |
霊山院は、栄西に支持して禅を修した慈光寺の栄朝が建立した寺。 |
栄西は、宋から茶の種を持ち帰り、それを筑前の霊仙寺に蒔いて茶を栽培した。 のちに京都の建仁寺でも栽培したという。 栄西から茶の種を譲り受けた明恵は、栂尾の高山寺で茶を育て、宇治に移植し、茶の栽培を行った。 これが「宇治茶」のはじまり。 また、京都東福寺の開山となった円爾は、宋から持ち帰った種を駿河に普及させたという。 円爾は栄西の高弟退耕行勇を師としていた。 |
茶碑 (京都:建仁寺) |
桑の碑 (京都:建仁寺) |
高山寺 |
萬福寺 |
栂尾の高山寺山内には日本最古の茶園がある。 宇治の萬福寺の辺りは、明恵が高山寺の茶を移植した場所で、門前には、「宇治茶発祥地の碑」(駒蹄影園址碑)が建てられている。 |
栄西が書いた我が国最古の茶書。 |
栄西の喫茶養生記(okadoのブログ) 茶道と禅道(茶禅一致)〜建長寺の茶筅供養〜(okadoのブログ) 禅僧と茶・・・栄西・明恵・円爾(okadoのブログ) 栄西と茶・・・京都:建仁寺「茶碑」(okadoのブログ) 栄西と喫茶養生記・・・京都:建仁寺「桑の碑」(okadoのブログ) |
寿福寺は、源義朝の旧跡に北条政子が創建したといわれる寺。 開山は、我が国臨済宗の開祖で『喫茶養生記』で知られる栄西。 鎌倉五山の第三位。 |
鎌倉市扇ガ谷1−17−7 鎌倉駅西口より徒歩10分 |
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