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小牧・長久手の戦いは、1584年(天正12年)に行われた羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍の戦い。 |
1582年(天正10年)6月2日、明智光秀の謀反により本能寺で織田信長が自刃、嫡男の信忠も二条殿で自刃した(本能寺の変)。 6月13日、山崎の戦いで光秀を破った羽柴秀吉は、6月27日に清州城で行われた清州会議で、信長の二男信雄・三男信孝を跡継ぎと認めず、孫の三法師(信雄の長男)を跡継ぎとする。 そして、1583年(天正11年)4月、秀吉は信孝を後継者に立てようと対抗していた柴田勝家を賤ケ岳の戦いで破り、信孝を尾張国野間で自刃させた。 これにより、秀吉は信長の実質的後継者となる。 |
野間大坊は、源頼朝の父義朝の菩提寺。 義朝の墓の周囲には、池禅尼や織田信孝の墓が並んでいる。 |
徳川家康は、本能寺の変後、甲斐・信濃・上野西部で起こった天正壬午の乱を鎮め、三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国を領する大大名となっている。 |
1584年(天正12年)3月6日、羽柴秀吉の勢力拡大に警戒心を抱き始めた信雄は、秀吉に通じていた津川義冬・岡田重孝・浅井長時を誅罰し、徳川家康に支援を求めた。 3月7日、浜松城を発った家康は、3月13日、清州城で信雄と合流し、小牧山に陣を敷いた。 一方、秀吉は池田恒興が占拠した犬山城に入って本陣とした。 両軍に大きな動きは見られなかったが・・・ 4月6日、秀吉は家康の本拠である岡崎城を奇襲する作戦に出る。 しかし、家康に事前に情報が漏れ、4月9日、長久手で挟撃されて家康の完勝に終わっている(白山林の戦い)。 その後は膠着状態が続き、5月1日、秀吉が撤退。 6月12日には家康も撤退している。 |
小牧長久手の戦いで池田恒興に占拠された犬山城は、織田信雄の清州城の支城だった。 合戦後、信雄に返還されている。 |
小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉を非難する檄文を書いたという榊田康政。 その内容は・・・ 「それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。 しかるに、信長公の寵遇を受けて将師にあげられると、その大恩を忘却して、子の信孝公を、その生母や娘と共に虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。 その大逆無道、目視する能わず、我が主君源家康は、信長公との旧交を思い、信義を重んじて信雄公を助けんとして決起せり」 というもの。 これに対して秀吉は・・・ 「康政の首をとったものには10万石を与える」 という触れを出したのだという。 |
※ | 家康は新田義重を祖とする源氏を称していた。 |
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少年期を家康の誕生伝説が残された鳳来寺で過ごし、家康に仕えると武田信玄の精鋭部隊「赤備え」を継承した井伊直政。 小牧・長久手の戦いでは、「井伊の赤備え」の名を天下に轟かせ、「井伊の赤鬼」として諸大名から恐れられたのだという。 浜松秋葉神社は「井伊の赤備え」発祥の地。 |
白山林の戦いで勝利した家康は小幡城に入城。 その報を受けた秀吉は、小幡城を攻撃するため3万の軍勢を率いて龍泉寺へ急いだ。 その行軍を妨害したのが本多忠勝。 わずか500騎ほどの部隊で3万の秀吉軍と対峙した忠勝の活躍に秀吉は・・・ 「東国一の勇士」と褒め称えたのだという。 |
石川数正は、家康の片腕として活躍した武将。 しかし、小牧・長久手の戦い後の1585年(天正13年)11月13日、出奔して豊臣秀吉に臣従。 軍事的機密を知り尽くした数正の出奔により、家康は軍制を武田流に改めることにしたのだという。 出奔の理由については諸説あって定かではないが、家康の母於大の方の兄である水野信元の誅殺が関係あるとも・・・ |
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小牧・長久手の戦いの和睦の条件として、家康は次男の於義伊(於義丸)を秀吉の養子としている。 そして、家康の後継者は、西郷局(お愛の方)が産んだ三男の長松(のちの徳川秀忠)とされた。 |
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小牧・長久手の戦い後、関白となった秀吉は、1586年(天正14年)、家康を臣従させるため妹の朝日姫(旭姫)を家康の正室(継室)としている。 |
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織田信雄の妹・徳姫は、小牧・長久手の戦い後、秀吉の人質として京都に居を構えている。 |
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愛知県小牧市堀の内1−1 名鉄「小牧駅」から徒歩10分 |
犬山市犬山北古券65−2 名鉄「犬山駅」から徒歩約17分 |
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