|
賤ヶ岳の戦いは、織田信長亡き後に起こった羽柴秀吉と柴田勝家の合戦。 |
信長の後継者争い |
1582年(天正10年)6月2日、明智光秀の謀反により本能寺では織田信長が自刃、二条殿では嫡男の信忠が自刃するという本能寺の変が発生。 6月13日、山崎の戦いで光秀を破った羽柴秀吉は、6月27日に清州城で行われた清州会議で、信長の二男信雄・三男信孝を跡継ぎと認めず、孫の三法師(信雄の長男)を跡継ぎとする。 これに対して、柴田勝家は信孝を後継者に立てようと対抗。 賤ヶ岳の戦いは、秀吉と勝家の政権争いであると同時に、信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝の対立でもあった。 |
柴田勝豊と織田信孝を 降伏させた羽柴秀吉 |
12月2日、羽柴秀吉は越前北ノ庄城の柴田勝家が雪で出陣できないことに乗じて、勝家の甥勝豊が守る長浜城を攻撃。 12月9日には勝豊を降伏させ、12月20日には美濃国の岐阜城を包囲して織田信孝を降伏させた。 |
滝川一益の挙兵と 柴田勝家の出陣 |
翌1583年(天正11年)正月、勝家に与した伊勢の滝川一益が挙兵。 秀吉は信雄と結んで攻撃するが 、一益はよく持ちこたえ、2月末には勝家が北ノ庄城を出陣。 3月12日、勝家が近江国の玄蕃尾城を本陣とすると、伊勢を攻めていた秀吉も3月19日に木ノ本に進出。 しかし膠着状態が続き、秀吉は長浜城で指揮をとることに。 |
長浜城は、羽柴秀吉が最初に築いた城だが、本能寺の変後は勝家の支配下にあった。 長浜城歴史博物館には、長浜城で指揮を執る秀吉が田上山砦に陣を構えた弟の羽柴秀長に送った書状が残されている。 |
![]() |
柴田勝家の敗北 |
4月16日、一度は秀吉に降伏した岐阜城の信孝が一益と結び再び挙兵。 翌17日、秀吉は北近江の指揮を弟の羽柴秀長に任せ、美濃へ進軍し大垣城に入るが、この機に乗じて勝家軍の佐久間盛政が大岩山砦を攻撃。 この戦いで秀吉方の中川清秀が討死、高山右近は木ノ本の秀長の陣所(田上山砦)に逃れた。 4月20日、大岩山砦が落とされたことを知った秀吉は、直ちに軍を返し、翌21日の未明には秀吉軍と佐久間盛政軍の激戦が繰り広げられた。 しかし、勝家に与していた前田利家が戦線離脱。 これにより、勝家軍は総崩れとなり、勝家は北ノ庄城へ敗走。 |
北ノ庄城の戦い |
柴田勝家の北ノ庄城は、安土城にも匹敵する巨大な城だったのだという。 賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、北ノ庄城に逃れた勝家は、4月23日、前田利家を先鋒とする軍勢に包囲され、翌24日、夫人のお市の方とともに自害した。 秀吉に苦戦をさせた佐久間盛政は、越前山中で捕らえられ、斬首されている。 |
織田信孝は尾張国で自刃 |
柴田勝家に接近していた織田信孝は、兄の織田信雄に岐阜城を包囲されて降伏。 尾張国野間へ退き、4月29日、信雄の使者から切腹を命じられ野間大坊で自刃。 |
JR余呉駅下車 岩崎山登山口から登山道を約2時間。 JR木ノ本駅下車 賤ヶ岳リフトまで徒歩30分。 リフト山頂駅まで6分。 山頂駅から山頂まで約10分。 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|