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長浜城(ながはまじょう)は、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の最初の居城。 秀吉は、1573年(天正元年)、浅井長政を攻略(小谷城の戦い)した功により、織田信長から長政の旧領北近江三郡と小谷城を拝領。 翌年、琵琶湖に面する今浜の地に新たな城を築いて小谷城下を移し、同時に今浜を長浜に改名。 一説には、信長の一字を拝領したのだという。 長浜城は、1582年(天正10年)、明智光秀の謀反により信長が本能寺で自刃すると(本能寺の変)、一時、柴田勝家の支配となるが、1583年(天正11年)の賤ケ岳の戦いで勝利すると、再び秀吉の手に戻った。 その後、山内一豊・内藤信成・内藤信正が城主となるが、1615年(元和元年)の大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡したことにより廃城。 解体された長浜城の築材は、彦根城の建設のために使用されたのだという。 |
長浜城の前身は今浜城 |
秀吉によって城が築かれる前の長浜(今浜)には、1336年(延元元年・建武3年)に近江源氏・佐々木氏一流で京極氏出身の佐々木道誉が築いた今浜城があった。 京極氏は、源頼朝に仕えた佐々木四兄弟の佐々木定綱の四男信綱から派生した氏族。 佐々木道誉は、鎌倉幕府十四代執権北条高時に仕えていたが、鎌倉幕府に反旗を翻した足利尊氏に従い、室町幕府の創設に寄与した武将。 1333年(元弘3年)、尊氏に六波羅探題を落され、東国へ逃れようとした北条仲時は、途中の番場宿で道誉の軍に阻まれ蓮華寺で自害したのだと伝えられている。 道誉が築いた今浜城は、京極氏の家臣だった今浜氏・上坂氏によって守られてきたが、上坂氏の専横に反発した浅見氏に攻められ落城したのだという。 |
北近江の戦国大名・浅井氏 |
今浜城落城後、浅見氏が北近江を支配するが、やがて小谷城を拠点に勢力を伸ばした浅井氏が浅見氏に代わって北近江を支配。 浅井氏は亮政・久政・長政と三代にわたって繁栄し、三代当主の長政は織田信長の妹・お市の方と結婚するが、のちに信長と敵対。 3年にわたって信長と戦ったが、1573年(天正元年)、小谷城で自刃、浅井氏は滅亡した。 |
現在の天守は、1983年(昭和58年)に犬山城や伏見城をモデルにして復興されたもの。 内部は長浜城歴史博物館として公開されている。 |
長浜城は琵琶湖に築かれた水城。 城内の水門から直に船の出入りができるようになっていたらしい。 |
1939年(昭和14年)に琵琶湖が渇水した際に発見された井戸だが、長浜城の井戸であったかどうかは定かではないらしい。 |
彦根城の天秤櫓は、長浜城から移築されたものと伝えられている。 |
妙心寺の塔頭桂春院の茶室既白庵(きはくあん)は、長浜城から移築されたもの。 |
三献の茶 |
石田三成と豊臣秀吉の出会いは、秀吉が鷹狩りの途中で立ち寄った法華寺と伝えられている。 三成は、汗をかいた秀吉にぬるめの茶を出し、秀吉がもう一杯頼むと少し熱めの茶を出し、さらに頼むと熱い茶を出してきた。 気配りのある青年と感心した秀吉は、召し抱えることにしたのだとか。 秀吉の死後は、五奉行のひとりとして豊臣政権を守ろうとした三成だったが、徳川家康と対立。 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで敗れ、京都の六条河原で処刑された。 関ヶ原での敗戦後、三成は法華寺があった古橋(長浜市古橋)で捕らえられたと伝えられている。 古橋は三成の母の故郷で、法華寺には母の墓があったのだという。 |
佐和山城は、1591年(天正19年)に石田三成が入った城。 関ヶ原の戦い後は、徳川四天王のひとり井伊直政が入城したが、間もなく彦根城が築かれ廃城となった。 佐和山城の築材も彦根城建設に使用されたのだという。 |
秀吉と竹生島 |
竹生島は、長浜城の北西に浮かぶ浅井氏ゆかりの島。 島内の竹生島神社には浅井氏の氏神・浅井比売命が祀られ、宝厳寺には浅井長政の父久松や祖母寿松が奉納した弁財天が祀られている。 長政は1558年(永禄元年)に焼失した竹生島神社や宝厳寺の復旧資材を寄進しているが、秀吉の長浜城は、長政が寄進した資材や小谷城で使われていた資材を流用して築城されたのだという。 1598年(慶長3年)、秀吉が死去すると、竹生島には秀吉ゆかりの建物が移築されている。 |
滋賀県長浜市公園町10−10 JR北陸本線 「長浜駅」下車 |
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