中世歴史めぐり


秀吉を支えた武将
豊臣秀長

編集:yoritomo-japan.com








 豊臣秀長(とよとみひでなが)は、豊臣秀吉の異父弟。

 父は竹阿弥(ちくあみ・筑阿弥)。

 母は仲(のちの大政所)。

 秀吉の右腕として中国征伐、但馬・播磨の経略、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀州征伐、四国征伐で活躍。

 1585年(天正13年)には、大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加えた100万石の大名となり、郡山城を居城とする。

 その後も九州征伐などで活躍し、従二位、大納言の官位を得て、大和大納言と称されたが、1590年(天正18年)1月頃から患っていた病が悪化。

 同年の小田原征伐には参陣できず留守役を務めた。

 1591年(天正19年)1月22日、郡山城で病死(享年52)。





父・竹阿弥

 秀長の父・竹阿弥は、母の仲の再婚相手。

 秀長と旭(駿河御前)の実父とされているが、秀吉の実父・木下弥右衛門と同一人物とする説もある。





小竹→小一郎→長秀→秀長

 秀長の幼名は小竹(こちく)といわれているが不明。

 のちに小一郎(こいちろう)と改め、織田信長に出仕すると、木下小一郎長秀と名乗る(時期は不明)。

 1573年(天正元年)、兄の秀吉が長浜城の築き、名字を「羽柴」に改めると、1575年(天正3年)頃には秀長も羽柴に改めている。

 1584年(天正12年)に長秀から秀長に改名。

 豊臣の姓を与えられたのは1585年(天正13年)以降と考えられている。





長浜城址
リンクボタン長浜城
(長浜市)

 長浜城は秀吉の最初の居城。

 秀長は城代を務めたことがあったのだという。



秀吉の書状
リンクボタン秀吉の書状

 小牧・長久手の戦いのさなかに秀吉が秀長に送った書状。



大坂城豊國神社
リンクボタン豊國神社
(大阪城公園)

 大阪城公園の豊國神社の祭神は、豊臣秀吉・秀頼父子と秀長。



大徳寺大光院
リンクボタン大徳寺大光院
(京都)

 大徳寺の塔頭大光院は、秀長の菩提寺として創建された寺。



長谷寺
リンクボタン長谷寺
(奈良)

 長谷寺は、1588年(天正16年)、秀長が専誉を招聘したことで観音霊場として復興。

 秀長は観音堂を再建、本坊は専誉の創建。

 歴代能化墓所には秀長の五輪塔が建てられている。





千利休

 千利休も秀吉の側近として活躍した茶人。

 秀長は大友宗麟が大坂城を訪れた際、に秀吉の弟豊臣秀長から

 「公儀のことは私に、内々のことは利休に」

 と忠告したのだと伝えられている。



大徳寺三門
リンクボタン大徳寺山門
(京都)

 秀長が死去した1591年(天正19年)、千利休は大徳寺山門(金毛閣)の修築をめぐって秀吉の怒りを買い、聚楽第の屋敷で自刃させられている。










中世歴史めぐり