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葬儀に20万人もの参列者があったという豊臣秀長。 何故、これほどの人気があったのか? それは、大和郡山城下を整備し、商業保護の政策をとったから・・・ |
大和国は、古代から興福寺が権勢を誇っていた国。 興福寺は、春日大社の実権を握り、大和国のほとんどの荘園を領して、事実上大和国を支配していました。 多くの僧兵を抱え、鎌倉時代に全国に守護を設置した源頼朝も大和国には守護を置くことができませんでした。 その状況は室町時代になっても続きます。 その勢力を削いだのが、1585年(天正13年)に大和郡山城に入った豊臣秀長。 秀長は、刀狩りを行い、度々武力衝突を起こしていた多武峰(妙楽寺)や興福寺から武器を没収。 吉野大衆と呼ばれ、南都北嶺(興福寺・延暦寺の僧兵)にも劣らないといわれた金峯山寺からも武器を没収しています。 さらに、それまで東大寺、興福寺、春日大社などと密接だった商業を寺社から分離させるため、門前町として栄えた奈良での商業活動を禁止し、郡山城下のみで商業活動を許可。 寺社が課していた税金を免除するなどの政策を打ち出しました。 |
秀長が採用した箱本制度は、住民に一定の自治権を与える代わりに、町の維持・運営に関わる様々な役割を義務付けるもの。 秀長の菩提寺・春岳院にはその資料が残されています。 |
秀長の病は、大織冠(藤原鎌足)の祟りかも・・・ |
奈良県大和郡山市城内町 近鉄橿原線「近鉄郡山駅」から徒歩7分 JR郡山駅から徒歩15分 |
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