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和泉式部(いずみ しきぶ)は、平安時代中期の歌人。 父は越前守・大江雅致。 母は平保衡の娘。 生没年不詳。 時期は不明だが、20歳頃に和泉守・橘道貞の妻となったらしい。 和泉式部の名は、夫が和泉守で父が官名(式部丞)を合わせたものといわれている。 |
和泉式部の父が務めた越前守は、紫式部の父藤原為時も務めた。 越前国は大国で国府は武生にあった。 越前市の紫式部公園は、平安朝式庭園が再現されたもの。 |
999年(長保元年)頃には、女子(小式部内侍)が誕生し、橘道貞とは良好な夫婦生活を送っていたようだが・・・ 冷泉天皇の第三皇子・為尊親王と恋愛関係になってしまう。 道貞との婚姻生活は破綻し、親からは身分違いの恋であるとして勘当された。 1002年(長保4年)、為尊親王が薨去すると、翌年・・・ 今度は為尊親王の弟・敦道親王(第四皇子)と恋愛関係に。 敦道親王は、和泉式部を邸に住まわせるが、正妃が激怒して出て行ってしまったのだという(のちに正妃とは離婚している。)。 1006年(寛弘3年)頃、和泉式部は男子を出産するが、翌年、敦道親王は薨去した。 |
※ | 為尊親王と敦道親王の母は藤原兼家の娘・藤原超子。 少し軽薄と評されていたらしい。 |
※ | 為尊親王と敦道親王は花山天皇の異母弟、三条天皇の同母弟。 |
※ | 『紫式部日記』には「和泉式部は感心できないところがある」と書かれている。 |
赤染衛門は、藤原彰子に仕えた歌人。 和泉式部が敦道親王邸に住むと聞いて心配した赤染衛門は、 「うつろはでしばし信太の森を見よかへりもぞする葛の裏風」 という歌を贈り、夫の帰りを待つように促したのだという。 しかし、和泉式部は、 「秋風はすごく吹けども葛の葉のうらみがほには見えじとぞ思ふ」 と返し、「夫は恨んではいない」と伝えたのだとか。 |
赤染衛門の歌~和泉式部の不倫に反省を促す歌~ 和泉式部の歌~恋の歌と敦道親王を失った時の歌~ |
石山寺は、藤原道綱の母・清少納言・紫式部・菅原孝標の娘など、女流作家・歌人にゆかりの寺。 『和泉式部日記』によると・・・ 和泉式部は石山寺に7日間参籠し、その間、敦道親王と和歌のやりとりをしたのだとか。 『和泉式部日記』は、1003年(長保5年)から翌年正月までの日記で、敦道親王との和歌のやりとりが記されている。 |
※ | 『紫式部日記』には「和歌は心惹かれる雰囲気もあるが、それほどすごい歌人とはおもっていない」と書かれている。 |
和泉式部の歌~恋の歌と敦道親王を失った時の歌~ |
1007年(寛弘4年)頃、一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えるようになる。 そして、1013年(長和2年)頃、彰子の父藤原道長に仕えていた平井(藤原)保昌と再婚。 武勇で知られ、道長四天王の一人に数えられた保昌には、和泉式部と結婚するため、紫宸殿の梅の枝を持ってきたという伝説が残されている。 祇園祭の保昌山は保昌が御神体。 参考までに、保昌の弟藤原保輔は盗賊だったらしい。 |
和泉式部に恋した平井保昌の伝説~祇園祭・保昌山~ |
紫宸殿跡 (平安宮) |
紫宸殿 (京都御所) |
敦道親王の恋が忘れれず、そのため保昌との仲がうまくいかなくなった和泉式部は、貴船神社を参詣。 「ものおもへば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞみる」 という歌に託して祈願すると、 「おく山にたぎりて落つる滝つ瀬の玉ちるばかりものな思ひそ」 という返歌が聞こえ、やがて願いが叶えられて夫婦仲が円満になったのだとか。 ただ、最終的には離婚しているらしい・・・ |
貴船神社 |
和泉式部歌碑 (貴船神社結社) |
貴船神社は水の神。 和泉式部は「沢の蛍が我が身より出た魂のようだ」と詠んでいる。 結社には和泉式部の歌碑が建てられている。 |
1025年(万寿2年)、娘の小式部内侍を失うと、この世の無常を思い、自らの往生を願い、播磨国圓教寺の性空を訪ねる。 和泉式部が女性が西方極楽浄土に往生する方法を訊ねると、性空は石清水八幡宮に祈るよう勧めた。 そこで、石清水八幡宮を参詣すると、八幡大菩薩から誓願寺で祈るよう告げられたのだという。 そして、誓願寺で出家して専意法尼という戒名を授かったのだとか。 |
石清水八幡宮は、南都大安寺の僧・行教が八幡神のお告げで勧請した社。 圓教寺の性空は、八幡大菩薩が阿弥陀如来の化身であることから石清水八幡宮を参拝するよう勧めたのだという。 しかし、八幡大菩薩は、今は仏ではなく神なので誓願寺で祈るよう告げたのだとか。 |
誓願寺は、清少納言や和泉式部などの女性から信仰され「女人往生の寺」と呼ばれた。 |
出家後、仕えていた藤原彰子の父道長から法成寺の塔頭・東北院の一角に一庵を賜った。 それが誠心院の始まり。 |
東北院は、彰子(上東門院)の発願で藤原道長の法成寺東北の一郭に建立された常行三昧堂を始まりとする寺院。 浄土寺真如町に移転するまでは、本禅寺・清浄華院・蘆山寺辺りにあったものと考えられている。 東北院境内の「軒端の梅」は和泉式部お手植えと伝えられている。 |
比叡山延暦寺の天海の廟所・慈眼堂にある歴代天台座主の墓所には、清少納言・紫式部の供養塔とともに和泉式部の供養が建てられている。 |
小式部内侍は、和泉式部とともに藤原彰子に仕えた。 母と同じく恋多き女性として知られ、藤原道長の次男・頼宗、同じく五男・教通、藤原範永、藤原公任の長男・定頼などと関係をもったのだという。 1025年(万寿2年)、藤原公成の子を出産した際に死去(20歳)。 「とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ子はまさりけり」 は、和泉式部が詠んだ哀愁歌。 参考までに、紫式部の娘・大弐三位も恋多き女性だったらしい。 |
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