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京都:誓願寺
〜落語発祥の寺〜

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京都:誓願寺


 誓願寺は、667年(天智天皇6年)、奈良に創建された寺。

 鎌倉時代の初めに京都の一条小川に移転し、1591年(天正19年)、豊臣秀吉の命により現在の新京極通に移された。

 広大な敷地が与えられ、堂塔や塔頭が建ち並ぶ大きな寺院だったが、大火による焼失を繰り返し、明治になると神仏分離に伴なう廃仏毀釈で衰退し、新京極通の整備で多くの寺地を失ってしまったのだという。

 誓願寺は、清少納言和泉式部などの女性から信仰され、秀吉の側室松の丸殿も帰依していたことから「女人往生の寺」と呼ばれる。

 また、謡曲「誓願寺」に謡われたことから「芸能成就を祈願する寺」、安楽庵策伝(さくでん)の「醒睡笑」から「落語発祥の寺」として信仰されている。

 浄土宗西山深草派の総本山。

 本尊は阿弥陀如来。



〜安楽庵策伝〜

 策伝は、誓願寺55世。

 1623年(元和9年)、策伝が著した笑話集「醒睡笑」は落語の教本といわれ、策伝は落語の祖と呼ばれた。 



〜本尊の阿弥陀如来〜

誓願寺阿弥陀如来


 誓願寺は、天智天皇の勅願で造立された阿弥陀如来を安置するため建立されたのだという。

 当時の本尊は失ってしまったが、現在の本尊は石清水八幡宮に八幡神の本地仏として安置されていたもの。

 明治の神仏分離により誓願寺に移された。





〜和泉式部が出家した寺〜

 平安時代の歌人で紫式部の同僚女房として中宮彰子に仕えた和泉式部は、娘の死をきっかけに誓願寺で出家し、藤原道長から法成寺内に一庵を与えられたのだという。

 その庵が誓願寺の南にある誠心院の前身。


誠心院
リンクボタン誠心院









〜弁慶石の伝説〜

弁慶石
リンクボタン弁慶石

(三条通)

 三条通にある弁慶石は、源義経に臣従した武蔵坊弁慶が愛したと伝わる石。

 弁慶の死後、奥州平泉高館に移されたが、「三条京極に帰りたい」と泣き出し、熱病が流行りはじめたため、京都に戻され、一時期、誓願寺の方丈庭園に置かれていたのだという。



源義経に臣従した武蔵坊弁慶





〜家康の徳川改姓に尽力した泰翁〜

 1566年(永禄9年)、三河国をほぼ平定した徳川家康の改姓(松平から徳川)に尽力したのは、誓願寺の泰翁だったのだという。

 泰翁は、家康が誕生した三河国岡崎の生まれで、平安時代末期に相模国の衣笠城を築いた三浦為通の末裔とされている。

 三浦為通は、三浦氏の祖といわれ、源頼朝の鎌倉幕府創造を支えた三浦義澄義村父子の先祖。

 泰翁は、岡崎の松平家の菩提寺・大林寺四世となり、誓願寺の五十一世となったのだという。



リンクボタン人質となった竹千代〜織田・今川の人質だった徳川家康〜

リンクボタン元康から家康に改名・松平から徳川に改姓





〜初花肩衝〜

 初花肩衝(はつはなかたつき)は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が所持した茶入。

 家康は本能寺の変後に手に入れるが、家康に献上したのは松平親宅。

 親宅の弟は誓願寺に住持していたのだという。

 本能寺の変時に初花肩衝を所持していた信長の嫡男・信忠。

 妙覚寺に宿営していた信忠は、二条殿(二条御所)に移って籠り、誠仁親王とその子・和仁王(後の後陽成天皇)を脱出させているが・・・

 初花肩衝も一緒に持ち出され、朝廷や徳川家と縁の深い誓願寺を経由して親宅が手に入れたという説がある。



リンクボタン家康が秀吉に贈った初花肩衝〜使者は石川数和:小牧・長久手の戦い〜


小牧・長久手の戦い










京都:誓願寺
誓願寺

京都市中京区新京極通三条下ル桜之町453番地

叡山電鉄「修学院駅」から徒歩5分
京阪電車「三条」から徒歩10分



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