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源義経の家臣として知られる武蔵坊弁慶。 その誕生は・・・ 母の胎内に18ヶ月(3年とも)、生まれたときには3歳児ほどの体つきで、髪は伸び、歯も生えそろっていたという異常なもの。 父母から鬼子と疎まれて殺されそうになるが、叔母に引き取られて京で育ったのだという。 |
弁慶石 (三条通) |
弁慶水 (比叡山) |
弁慶鐘 (園城寺) |
にない堂 (比叡山) |
幼少期を三条京極で過ごしたという弁慶。 三条通には、子供の頃の弁慶が愛したという弁慶石の伝説が残されている。 その後、比叡山延暦寺に預けられたが、乱暴狼藉を働き、衆徒から憎まれ、追い出されてしまう。 比叡山を下りた弁慶は、諸国修行の旅に出て、四国から播磨国へ行き、書写山円教寺に身を寄せるが、やはり乱暴を繰り返して、堂塔を炎上させてしまったのだとか・・・。 やがて京に戻って来た弁慶。 1000本の太刀を奪うという祈願を立て、夜な夜な奪った太刀は999本になった。 そして、ついに義経と・・・ |
『義経記』によれば・・・ 1176年(安元2年)6月、五條天神社で源義経と出会った弁慶。 1000本目の太刀を奪いたい弁慶は義経に襲いかかったが、ゆらりと飛び上がってその攻撃をかわす義経。 その後も義経は、空中で止まって、また舞い上がるという離れ業で弁慶の太刀をかわし、その夜は決着がつかなかった。 |
五條天神社は、弘法大師空海が創建したという古社。 その名は、神社北側の松原通が五条通と呼ばれていたことによるらしい。 |
翌夜は清水寺の祭礼。 もしかしたら、昨夜の男が来るかもしれないと待ち伏せしていた弁慶。 門前で義経を見つけた弁慶は、薙刀で襲いかかるが、またしても軽くあしらわれてしまう。 それでも義経を追いかける弁慶。 清水の舞台で勝負することとなったのだが・・・ さんざんに打ち負かされ降参した弁慶は、義経と主従の契りを結んだのだとか・・・ |
清水の舞台は、清水寺の本堂。 清水観音は、義経の母常盤御前が信仰し、平治の乱で源義朝が敗れると、常盤は義朝の子三人を連れて清水寺に参ったのだと伝えられている(参考:子安塔)。 |
五条大橋は、唱歌『牛若丸』で牛若丸(義経)と弁慶が出会ったと歌われた橋。 五条大橋の伝説は、明治から大正期の作家・巖谷小波が著した『牛若丸』が基となっているらしい(『日本昔噺』(にほんむかしばなし)23編)。 |
弁慶鐘 (一ノ谷・須磨寺) |
長刀泉 (屋島) |
菜切地蔵 (屋島) |
腰越状 (満福寺) |
義経弁慶隠家跡 (大物主神社) |
義経隠れ塔 (金峯神社) |
吉水神社 (吉野山) |
源平合戦で多くの伝説を残し、義経が兄頼朝に追われる身になっても付き従った弁慶。 奥州平泉の衣川館で義経とともに最期を遂げた。 |
最期の時、弁慶が「六道の 道の巷に 待てよ君 遅れ先立つ 習いありとも」と詠むと、 義経は「のちの世も またのちの世も めぐりあはむ 染む紫の 雲の上まで」 と返したのだという。 |
中尊寺の弁慶堂には、衣川館で自害した源義経と仁王立ちのまま息絶えたという弁慶の像が安置されている。 |
源義経を祀る白旗神社の境内には、2019年(令和元年)10月、義経の没後830年の記念事業の一つとして、源義経と弁慶の銅像が建てられた。 |
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