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中尊寺・弁慶の墓
〜平泉〜

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中尊寺・弁慶墓


 中尊寺の表参道・月見坂の入り口に植えられている松の根元の塔は、弁慶の墓と伝えられている。
 
 1189年(文治5年)閏4月30日、源義経衣川館が藤原泰衡によって攻められ、主君義経とともに最期を遂げた武蔵坊弁慶の遺骨が葬られているという。

 傍らには、後に中尊寺の僧・素鳥が詠んだ「色かへぬ松のあるしや武蔵坊」の句碑が建てられている。


中尊寺・弁慶墓





高館義経堂
リンクボタン衣川館
(高館義経堂)

 京都の五条大橋で義経と出会ったという弁慶。

 源平合戦で多くの伝説を残し、義経が兄頼朝に追われる身になっても付き従い、衣川館で義経とともに最期を遂げた。

 最期の時、弁慶が「六道の 道の巷に 待てよ君 遅れ先立つ 習いありとも」と詠むと、

 義経は「のちの世も またのちの世も めぐりあはむ 染む紫の 雲の上まで」と返したのだという。

 弁慶:あの世のへの道の途中で待っていてください。

 義経:のちの世も巡り会おう


中尊寺弁慶堂
リンクボタン義経と弁慶
(中尊寺弁慶堂)

 弁慶堂には、衣川館で自害した源義経と仁王立ちのまま息絶えたという弁慶の像が安置されている。


リンクボタン『吾妻鏡』が伝える中尊寺

リンクボタン『吾妻鏡』が伝える毛越寺





〜弁慶石の伝説〜

弁慶石
リンクボタン弁慶石
(京都:三条通)

 京都の三条通にある弁慶石は、源義経に臣従した弁慶が愛したと伝わるもの。

 弁慶の死後、平泉高館に移されたが、「三条京極に帰りたい」と泣き出し、熱病が流行りはじめたため、京都に戻されたのだという。





源義経・武蔵坊弁慶の像
リンクボタン源義経・武蔵坊弁慶の銅像
(藤沢:白旗神社)

 平泉で最期を遂げた義経と弁慶の首は、鎌倉の腰越の浜に運ばれ、首実検が行われた後、川を遡って藤沢に辿り着いたのだという。

 義経を祀る白旗神社には、2019年(令和元年)10月、源義経公没後830年の記念事業の一つとして、義経と弁慶の銅像が建てられた。



源義経に臣従した武蔵坊弁慶








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源義経の伝説




中尊寺本堂
リンクボタン中尊寺

 中尊寺は奥州藤原氏の栄華を伝える寺院。
 2011年(平成23年)、「平泉〜仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群〜」として世界文化遺産に登録されている。


岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202

JR平泉駅から徒歩25分程度



奥州藤原氏の栄華と
源頼朝・源義経をめぐる平泉

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奥州平泉
リンクボタン奥州藤原氏の栄華〜平泉〜





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