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中原親能は、鎌倉幕府の草創期に源頼朝に招かれて下向した公家出身の御家人。 政所別当を務めた大江広元の兄なのだという。 一説には、頼朝が伊豆国の流人の身の頃から親交があって、頼朝が挙兵すると関東に走り、頼朝の側近となったともいわれるが定かではない。 鎌倉幕府では、軍事・行政を補佐し、京都守護・政所公事奉行など重職を歴任。 1185年(元暦2年)の平家追討では、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山朝政・小山宗政・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂・天野遠景・仁田忠常・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状を受けている。 1189年(文治5年)の奥州征討にも従軍した。 1186年(文治2年)、頼朝に次女の三幡が誕生すると、親能の妻が乳母に就任。 1191年(建久2年)、大江広元とともに後白河法皇の院御所「法住寺殿」の修造の指揮をとった(後白河法皇の院御所「法住寺殿」の再建)。 1199(建久10年)1月13日に頼朝が死去すると頼家が家督を相続するが、4月12日に頼家の訴訟親裁が停止されたことにより宿老13人による合議制の一人となった。 同年6月30日、三幡が死去したことに伴い出家(法名は寂忍)。 1208年(承元2年)12月18日、京都で卒去(66歳)。 |
『石山寺縁起』によれば、 中原親能は源頼朝の命により山城国和束における謀反人を追討する際、石山寺に参詣して毘沙門天に戦勝を祈願し勝利を収めたのだという。 その報恩のため、親能は石山寺に勝南院を建立し、妻の亀谷禅尼は剃髪後に石山寺に住して宝塔院を建立して大日如来の胎内に頼朝の髪を収めて日々勤行したのだと伝えられている。 |
源頼朝が寄進したという多宝塔背後にある二基の宝篋印塔は、右が源頼朝、左が亀谷禅尼の供養塔と伝えられている。 |
東大門 (重文) |
鐘楼 (重文) |
石山寺の東大門・鐘楼・多宝塔は源頼朝の寄進と伝えられている。 |
『吾妻鏡』によると、中原親能の鎌倉の屋敷は亀ヶ谷にあって、頼朝の次女三幡が病気になった際には、京都から呼び寄せられた医師丹波時長が最初に滞在した所が親能邸だった。 その後亡くなった三幡は、親能の亀谷堂に葬られたのだという。 扇ヶ谷の岩船地蔵堂は、一般的に頼朝の長女大姫の墳墓堂とされているが、三幡の墳墓堂ではないかという説がある。 現在、この辺りは扇ヶ谷(扇ガ谷)という地名だが、鎌倉時代には亀ヶ谷が一般的な呼び名だった。 |
『吾妻鏡』によれば、平重衡の焼討によって焼失した東大寺の再興に助力していた源頼朝は、1194年(建久5年)、大仏殿内の二菩薩と四天王の造像を御家人の負担としている。 観音菩薩像・宇都宮朝綱、虚空蔵菩薩像・中原親能、増長天像・畠山重忠、持国天像・武田信光、多聞天像・小笠原長清、広目天像・梶原景時。 |
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