鎌倉手帳(寺社散策)

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女性を救った駆け込み寺
〜鎌倉:東慶寺〜


編集:yoritomo-japan.com








東慶寺


 東慶寺は、八代執権北条時宗の妻覚山志道尼によって開かれた尼寺で、五代用堂尼以降は「松ヶ岡御所」「比丘尼御前」と呼ばれた格式の高い寺だった。

 夫の横暴に泣く女性救済のための「縁切寺法」が定められ、多くの女性が救われた。





 東慶寺に駆け込んだ女性は、離婚ができた。

 東慶寺に「駆け込む」というと「出家する」ということのようにも思えるが、別に「尼になれ」ということではなかったらしい。

 東慶寺には寺役所があって、逃げ込んできた女性は御用宿で取り調べを受け、夫を呼び出して裁判が行われ、離婚が成立していた(協議離婚)。

 東慶寺の門前には柏屋、仙台屋、松本屋という3軒の御用宿があったという。

 ほとんどの夫が東慶寺に出頭する前に、いわゆる「三行半」(みぐだりはん)を書いて持参してきたのだとか。 



東慶寺を詠んだ川柳

「出雲にて結び鎌倉にてほどき」

「くやしくば尋ね来てみよ松ヶ岡」









〜三行半(みぐだりはん)〜

 今でも「みくだりはん」という言葉が使われているが、これは離縁状のことで、三行半くらいで書かれていたことからそう呼ばれるようになった。

 昔は女性から離婚することができなかったことから、東慶寺の存在は大きかった。



〜門が開いていなかったら・・・〜

 駆け込んでくる女性の入る門は、時間で開けられていたことから、閉門されているときは、かんざしや下駄を投げ入れれば駆け込んだのと同じ効果が得られたという。



〜夫が三行半を提出しない場合〜

 夫が「三行半」を提出しないと「縁切寺法」が発動される。

 この場合、協議離婚とは異なり、寺入りして奉公しなければならなかった。
 しかし、この場合も尼になるということではなく、三年間の修行を積んで寺を出て行くといったものであったらしい。

 その費用は夫が持った。夫に金がない場合は名主が払ったという。





〜東慶寺の規則違反で大名を罰した二十世天秀尼〜

 会津若松藩四十万石の城主加藤明成の家来であった堀主水は、城主の非を幕府に訴えるため妻なえとともに会津を出奔した。

 しかし、幕府に訴える前に明成に追われ、主水は高野山に逃げ、なえは東慶寺に逃げ込んだ(高野山は女人禁制のため)。

 高野山から主水の引渡しを受けこれを斬殺した明成は、次に東慶寺に対し主水の妻なえの引渡しを迫った。

 これに怒った二十世天秀尼は、養母千姫を通じて徳川三代将軍家光に訴え、明成の四十万石を没収させたという。

 なえは事件後、実家の黒川家に戻るが、そのとき天秀尼は阿弥陀像を与えた。その像は現在東慶寺に戻っている。


天秀尼
リンクボタン天秀尼


 二十世天秀尼は、豊臣秀頼の子で徳川二代将軍秀忠の娘千姫の養女(奈阿姫)。

 大坂夏の陣で秀頼の大坂城が落城すると、千姫の助命嘆願により命を救われた奈阿姫は、出家して東慶寺に入った。

 (参考:千姫の墓(京都:知恩院))。





〜上州にもあった縁切寺〜

満徳寺
リンクボタン満徳寺
(太田市)

 東慶寺天秀尼の嘆願によって徳川家康から縁切寺法を許可された尼寺だったが、満福寺も家康から認められた縁切寺・駆け込み寺だった。

 千姫の侍女だった俊澄が中興したのだという。



駆け込み女と縁切り寺法・・・北鎌倉:東慶寺(okadoのブログ)

駆け込み女と駆け出し男・・・北鎌倉東慶寺(okadoのブログ)









東慶寺
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 東慶寺は、北条時宗の妻覚山尼が開いた。
 かつては、鎌倉尼五山第二位の格式を誇り、夫の横暴に悩む女性の救済場所だった。

鎌倉市山ノ内1367





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