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東慶寺の二十世天秀尼は大坂夏の陣で滅んだ豊臣秀頼の子。 徳川二代将軍秀忠の娘千姫の養女(奈阿姫)。 大坂城が落城した後、千姫の助命嘆願により命を救われた奈阿姫は、出家して東慶寺に入った。 |
天秀尼が父秀頼の菩提を弔うために1642年(寛永19年)に鋳造したという雲版(うんばん)。 |
東慶寺に預けられる際、徳川家康に望みを聞かれた天秀尼は「開山よりの縁切寺法が断たれることのないように」と願い出たという。 その後、東慶寺の「縁切寺法」は、1872年(明治5年)まで存続した。 1645年(正保2年)死去(37歳)。 天秀尼の死によって豊臣秀吉の直系は断絶。 |
![]() (大名を罰した天秀尼) ![]() |
天秀尼の養母千姫は大坂落城後、桑名藩の本多忠刻と結婚するが、忠刻が亡くなった後、江戸城に入って出家(天寿院)。 1643年(寛永20年)には、養女天秀尼のいる東慶寺の伽藍を再建した。 1666年(寛文6年)、江戸で死去(享年70歳)。 墓所は伝通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺。 徳川家が帰依していた京都の知恩院にも分骨されている。 |
駆け込み女と駆け出し男・・・北鎌倉東慶寺(okadoのブログ) |
天秀尼の墓の横にある「台月院殿明玉宗鑑大姉」と刻まれた宝篋印塔。 誰の墓か不明だが、「天秀和尚御局」とも刻まれていることから、天秀尼に関係した女性の墓と考えられている。 |
東慶寺は天秀尼の嘆願によって徳川家康から縁切寺法を許可された尼寺だったが、満福寺も家康から認められた縁切寺・駆け込み寺だった。 千姫の侍女だった俊澄が中興したのだという。 |
東慶寺は、北条時宗の妻覚山尼が開いた。 かつては、鎌倉尼五山第二位の格式を誇り、夫の横暴に悩む女性の救済場所だった。 |
60年に一度の祭礼![]() |
源頼朝も祀る! |
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