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静御前は、京の白拍子。 母は磯禅師。 『義経記』によると・・・ 1182年(寿永元年)、後白河法皇は、神泉苑に白拍子100人を呼んで「雨乞いの舞」を舞わせます。 99人までが舞っても雨は降りませんでしたが、100人目の静が舞うと3日間雨が降り続いたのだといいます。 このとき、舞を見ていた源義経に気に入られて妾となったのだと伝えられています。 『義経記』が伝える日本一の静の舞 |
※ | 白拍子は、今様などを歌いながら男装で舞う女性。 |
静は、兄の源頼朝と不仲となった義経が都を落ちるときも行動を共にしていました。 『吾妻鏡』よると、1185年(文治元年)11月、都を落ちた義経一行は大物浜から九州への船出を試みますが、船が難破して海を渡ることができず、家人はバラバラとなり、その夜は四天王寺に宿泊。 義経は2日ほどここで待つように告げて行方をくらましますが、やがて迎えの馬がよこされ、3日かかって吉野山へ。 吉野山に5日間逗留した後、義経と別れ、11月17日、蔵王堂(金峯山寺)に辿り着いたところを捕えられたのだといいます。 |
金峯山寺 |
勝手神社 |
蔵王堂で捕えられた静御前は、勝手神社で舞い、荒法師たちを感動させたのだと伝えられています。 |
12月8日、蔵王堂の執行(長)から、当時京都に滞在していた北条時政に身柄が引き渡された静は、翌1186年(文治2年) 3月1日、母磯禅師とともに鎌倉に送られてきました。 頼朝は、鎌倉に来た静に舞わせようとしますが、静はそれを断り続けます。 しかし、4月8日、八幡大菩薩に献舞するということで説得され、鶴岡八幡宮の若宮の回廊で舞を披露することとなります。 静は、義経を慕う今様(いまよう・歌謡)にあわせて舞います。 工藤祐経が鼓を畠山重忠が銅拍子を担当しました。 |
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき (吉野山の白雪を踏み分けて山深くお入りになってしまった義経様が恋しい ) |
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな (静、静と繰り返し私の名を呼んだあの人の輝かしかった頃にもう一度戻りたい) |
『吾妻鏡』には、「まことにこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし。上下みな興感を催す」と記されています。 参列した者のほとんどが「静の舞」に心を動かされたということなのかもしれません。 頼朝は、静が義経を慕う歌をうたったことから激怒しますが、妻の北条政子は「私が御前だったとしてもあのように舞ったでしょう」と言ってとりなしたのだと伝えられています。 |
北条政子を感動させた静の舞〜梁塵を動かす歌と舞〜 梶原景茂に口説かれた静御前〜私は源義経の妾です!〜 『義経記』が伝える日本一の静の舞 |
5月27日、静は、頼朝が父義朝の菩提を弔うために創建した勝長寿院でも、頼朝の娘・大姫に舞を見せています。 大姫は、婿の木曽義高が殺されて以来、体調が優れず、勝長寿院に参籠して病気回復祈願をしていました。 静にとって似たような境遇にあった大姫は特別な存在だったのかもしれません。 |
〜鎌倉まつり静の舞の開催日等〜 |
2022年2月8日、鎌倉市観光協会の方から本ページの記載についてお電話をいただきました。 「静の舞」が奉仕される「鎌倉まつり」の開催時期・期間については、4月の第2日曜から第3日曜が恒例となっていましたが、開催時期・期間の決まりはなく、毎年理事会で決定されるそうです。 「静の舞」につきましては、4月の第二日曜日に奉仕されるのが恒例となっていたため、その旨を記載してまいりましたが、2022年以降につきましては正式発表で確認されるようお願いいたします。 |
※ | 「静の舞」は、童謡・唱歌「鎌倉」にも歌われています。 |
鎌倉に来た静は、義経の子を身籠っていました。 そのため、長く鎌倉にとめ置かれていました そして、生まれてくる子が男子であったなら、その子の命を絶つことは決まっていました。 閏7月29日、静の産んだ子は男子。 頼朝の命により、その子は殺害され、その遺体は由比ヶ浜に捨てられたということです。 9月16日、静は傷心のまま鎌倉を離れ京に向かったとされていますが、その行方は不明です。 由比ヶ浜に身を投げたともいわれています。 |
母と子との悲しい運命〜源義経の子を産んだ静御前〜 |
鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の傍らには、静の終焉の地の一つとされる福島県郡山市の「静桜」が植樹されています。 静は、義経を追って奥州平泉に向かいますが、途中で義経の死を知り、義経の菩提を弔うために植えたのが「静桜」なのだと伝えられています。 |
昔、宇都宮二荒山神社の南には、奥州平泉へ向かう途中の静が鏡を落としたという池があったのだといいます。 |
静御前の鏡の伝説〜宇都宮二荒山神社〜 |
※ | 現在、鶴岡八幡宮の静桜は流鏑馬馬場にはなく、大石段横に植えられています。 |
静が後白河法皇の命によって「雨乞いの舞」を舞った神泉苑は、東寺の弘法大師(空海)も「雨乞い祈祷」を行ったという「雨乞いの霊場」として知られた場所。 もとは、天皇の禁苑でしたが、現在は東寺真言宗の寺となっています。 朱塗りの法成橋は、義経と静が出会ったと場所とも伝えられています。 |
鎌倉市雪ノ下2−1−31 鎌倉駅東口から徒歩10分 |
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