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二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)は、仁徳天皇の時代に創建された古社で、武将の信仰が篤かった社。 下野国一宮 (※日光二荒山神社も一宮といわれる。) 藤原秀郷は授かった霊剣で平将門を討ったと伝えられ、前九年・後三年の役では源頼義・義家父子が戦勝祈願した。 1189年(文治5年)7月、奥州平泉の藤原泰衡を討つため出陣した源頼朝は戦勝を祈願。 征伐後は捕虜の一人を神職として寄付すると誓って鏑矢を奉納した(『吾妻鏡』)。 同年10月、奥州征伐の帰路に参拝した頼朝は、祈願成就に感謝して荘園を一箇所寄進し、平泉で捕虜とした樋爪俊衡(奥州藤原氏)の一族を神職としている(『吾妻鏡』)。 1600年(慶長5年)には、関ヶ原に出陣する徳川家康が戦勝を祈願している。 |
豊城入彦命 (とよきいりひこのみこと) |
大物主命 (おおものぬしのみこと) 事代主命 (ことしろぬしのみこと) |
宇都宮氏は、 近江国の石山寺の座主だったという藤原宗円が二荒山神社の別当となり、孫の朝綱が宇都宮氏を名乗ったことに始まる。 藤原宗円は、前九年の役で苦戦中の源頼義のもとに不動明王像を携えて赴き、戦勝を祈願して戦を勝利に導いたのだと伝えられ、その功により宇都宮の地を与えられたのだという。 宗円が携えていた不動明王像は多気山不動尊の本尊。 |
1229年(寛喜元年)、二荒山神社に神宮寺が建てられた際、歌人としても知られる五代頼綱が藤原定家と親交があったことから、藤原定家と藤原家隆から襖を飾る障子歌が贈られたのだという。 |
清巌寺の稚児の樹は、天狗にさらわれたの二荒山神社の稚児を供養するために植えられた柊。 |
『平家物語』によると、 1185年(元暦2年)2月19日、屋島の戦いで源義経から船上の扇の的を射るよう命じられた那須与一は、 「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光権現、宇都宮、那須湯前大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させて賜たばせ給へ」 と祈ったのだという。 宇都宮は二荒山神社のこと。 |
昔、二荒山神社の南には鏡ヶ池という大きな池があって、奥州平泉にいる源義経のもとへ向かう途中の静御前が鏡を落としてしまったのだという。 |
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案内板によると・・・ 源頼朝が生贄として二荒山神社に奉献した樋爪俊衡と弟の季衡の墓、あるいは、季衡とその子経衡の墓なのだという。 宇都宮の伝説によると・・・ 奥州で捕虜にされた樋爪一族は、逃亡して斬り殺されてしまったのだとか・・・ |
樋爪氏は、樋爪俊衡が現在の岩手県紫波町日詰箱清水あたりに樋爪館を構えてことに始まる。 俊衡は奥州藤原氏初代清衡の四男清綱の子。 『吾妻鏡』によると、 奥州征伐が行われた1189年(文治5年)9月4日、志波郡に頼朝軍が到着すると、大軍に驚いた樋爪俊衡は樋爪館に火をかけて逃亡。 頼朝は三浦義澄・三浦義連・三浦義村に追わせるが、9月15日、俊衡と弟の季衡は降伏して、岩井郡厨河に陣を構えていた頼朝のもとに出頭。 俊衡の子師衡・兼衡・忠衡、季衡の子経衡も一緒だった。 俊衡らの躰をみて哀れに思った頼朝は、一族を八田知家に預けている。 翌日、知家から俊衡が法華経を唱え続けていることを聞いた頼朝は、俊衡の罪を許し、元の領地(比爪)を安堵。 10月19日、奥州からの帰路、下野国で二荒山神社を参拝した頼朝は、祈願成就に感謝して荘園を一箇所寄進し、俊衡の一族を雑務役としている(一族のうちのだれだったのかは不明)。 12月6日、頼朝は俊衡以外の者について、流罪にする太政官布告の発出を上申。 12月18日に宣下があって配流先は以下のとおり。 ○相模国 藤原秀衡の四男で源義経の首を鎌倉に届けた高衡 俊衡の子師衡 季衡の子経衡 隆衡(?) ○伊豆国 景衡(?) ○駿河国 俊衡の子兼衡 ○下野国 樋爪季衡 |
宇都宮市馬場通り3-1 宇都宮駅より徒歩15分 |
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