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藤原道隆(ふじわらのみちたか)は、関白太政大臣・藤原兼家の長男。 母は藤原時姫。 953年(天暦7年)誕生。 兄弟姉妹に超子・道綱・道綱母養女・道兼・詮子・道義・道長がいる。 |
藤原兼家 |
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984年(永観2年)、円融天皇が花山天皇に譲位すると、伯父・伊尹の子義懐が花山天皇を補佐して権勢を奮うことに。 しかし、985年(寛和元年)、花山天皇は寵愛していた女御の藤原忯子を亡くし、出家を考えはじめた。 父の兼家は、娘の詮子が産んだ懐仁親王に譲位させようとして画策。 986年( 寛和2年)、三男・道兼を使って花山天皇を出家させ、懐仁親王(一条天皇)を即位させた(寛和の変)。 この政変で道隆は道綱(弟・兼家の次男)ととともに清涼殿の三種の神器を凝花舎(皇太子の居所)へ移す役割を果たしている。 一条天皇の即位により、父兼家は摂政に就任。 道隆も大納言となり、989年(永延3年)には内大臣となった。 |
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990年(永祚2年)正月、長女の定子が一条天皇に入内。 同年5月、父兼家が病で関白を辞すと、道隆が後任となる。 兼家は7月2日に薨去。 10月には定子を中宮とした。 弟の道兼は、父兼家が寛和の変で功のあった自分ではなく兄を関白にしたことを憎み、喪中にもかかわらず遊興に耽っていたのだと伝えられている。 一方で、道隆の嫡男・伊周が異常ともいえる昇進を続けることとなるが、娘の詮子に不満を持たれ、後に伊周の失脚へとつながる。 |
大原野神社は、藤原氏の氏神・春日大社を勧請して創建された社。 993年(正暦4年)、一条天皇が大原野神社へ行幸。 道隆を始め藤原氏の公卿ほぼ全員が供奉したが、道隆に不満を持っていた藤原公任は供奉せず勅勘を受けている。 |
995年(正暦6年)正月、次女の原子を皇太子・居貞親王の妃としたが、程なくして病に伏し、4月3日、関白を辞す。 嫡子の伊周を後継者にしようとしたが、伊周が関白に就任することはなかった。 4月6日に出家、10日に薨去(享年43)。 関白となったのは、弟の道兼。 しかし、道兼も間もなく薨去。 その後、嫡男の伊周が道長と関白の座を争うが、道長が氏の長者となり、伊周は失脚。 中関白家と呼ばれた道隆一族は没落した。 ただ、道隆に仕えていた源俊賢は、その後も中関白家との繫がりを保ち続けたのだという。 のちに俊賢は、一条朝の四納言の一人に数えられるようになる。 |
※ | 居貞親王は冷泉天皇の第二皇子で母は兼家の長女超子(のちの三条天皇)。 |
※ | 伊周の母は高階貴子。 |
※ | 道隆の死因は糖尿病、大酒飲みだったらしい。 |
※ | 幕末に活躍した西郷隆盛は道隆の末裔らしい。 |
東三条院(東三条殿)は、摂関家の邸宅。 道隆はここで薨去。 道隆没後、政治の中枢に立ったのは、嫡子の伊周との争いに勝った弟の道長。 そのため道長やその子頼通は、道隆の怨霊を恐れたのだという。 1029年(長元2年)、東三条殿で病に倒れた頼通は、道隆の怨霊が病を惹き起こしたと告げられ、東三条殿から退避したのだとか。 |
平清盛の継母で源頼朝の命を救った池禅尼や源実朝の正妻坊門姫は、道隆の四男・隆家の子孫らしい。 |
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