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1000年(長保2年)12月16日に崩御した一条天皇の皇后・藤原定子が葬られた地。 生前の希望により土葬とされている。 藤原行成の『権記』によると・・・ 定子が崩御したのは16日の明け方。 23日、遺体を六道の辻の六波羅蜜寺に安置。 27日、鳥戸野へ葬送。 『栄華物語』によると、雪の降る中での葬送だった。 葬儀を取り仕切ったのは、父の藤原道隆に仕えた平惟仲だったのだという。 |
藤原定子の出産・崩御と平惟仲、平生昌、清少納言、藤原道長 |
『栄花物語』によると・・・ 定子が崩御した後、兄の藤原伊周と弟の藤原隆家は、御帳台の帷子の紐に結びつけられていた和歌三首を見つけている。 それは、 一条天皇への遺詠、死期が迫った心細い気持ちを詠んだ辞世、そして、土葬される身を詠んだものだった。 |
藤原定子の歌~死を悟った一条天皇皇后宮の遺詠の歌・辞世の歌~ |
定子の陵墓からは京都タワーが見える。 |
『栄花物語』によると、定子は、雪が降る中を黄金づくりの糸毛車(最上格の牛車)に乗せられて埋葬の地に到着。 伊周は 「誰もみな 消え残るべき 身ならねど ゆき隠れぬる 君ぞ悲しき」 隆家は 「白雪の 降りつむ野辺は 跡絶えて いづくをはかと 君をたづねむ」 と詠んでいる。 |
隆円は延暦寺の僧で、定子の同母弟。 大雪の中、定子の葬送に従った隆円は、哀傷の歌を詠んでいる。 |
隆円の歌~姉藤原定子の葬送の際に詠んだ歌~ |
鳥戸野陵は、 醍醐天皇の中宮・藤原穏子、 円融天皇の女御・藤原詮子、 後朱雀天皇の皇后・禎子内親王、 後冷泉天皇の皇后・藤原歓子、 白河天皇の中宮・藤原賢子、 堀河天皇の女御・藤原苡子 の火葬塚でもあった。 |
藤原詮子の晩年 ~平惟仲邸が御所・藤原行成邸で崩御~ |
定子の教育係として仕えた清少納言は、晩年、定子の眠る鳥辺野近くの東山月輪に隠棲したのだという。 東山月輪に建てられた泉涌寺に歌碑がある。 |
鳥辺野の南西の地(鳥戸野)は、古くからの貴族の葬地であったが、その葬儀や法要の多くは今熊野観音寺が営まれていたらしい。 今熊野観音寺付近には、清少納言の父・清原元輔の邸宅があったのだという。 藤原公任の『公任卿集』には、清少納言が東山月輪に返り住んだことが記され、公任は、 「ありつゝも 雲間にすめる 月の輪を いく夜ながめて 行きかえるらむ」 と詠んでいる。 |
桜は中宮・藤原定子!~清少納言が描いた桜は、散らない桜!~ 春はあけぼの~藤原定子と清少納言と枕草子~ |
1011年(寛弘8年)6月22日に崩御した一条天皇は、定子と同じく土葬を望んでいたが、藤原道長は火葬を終えてからその事を思い出したのだという。 遺骨は東山の円成寺に安置された後、1020年(寛仁4年)6月16日に円融寺に改装された。 一条天皇の円融寺陵は龍安寺内にある。 |
京都市東山区今熊野泉山町55 JR・京阪東福寺駅下車 徒歩15分 |
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