紫式部「光る君へ」


後一条天皇
一条天皇の第二皇子
生母は藤原彰子


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 後一条天皇は一条天皇の第二皇子。

 母は藤原道長の長女・藤原彰子

 1008年(寛弘5年)9月11日、道長の邸宅・土御門殿で誕生。

 諱は敦成(あつひら)。

 1016年(長和5年)、三条天皇の譲位を受けて即位。

 1017年(寛仁2年)、叔母の藤原威子を中宮とする。

 1036年(長元9年)4月7日、清涼殿で崩御(29歳)。


 後一条天皇の后は威子一人だった。

 威子は章子内親王と馨子内親王を産んだが、皇子を産むことはできず・・・

 二皇女は、それぞれ後冷泉天皇と後三条天皇の中宮となったが、後世に血を伝えることはできなかった。



平安宮 内裏 清涼殿跡
リンクボタン清涼殿跡
(平安宮)
清涼殿
リンクボタン清涼殿
(京都御所)


 後一条天皇が崩御したのは平安宮清涼殿

 京都御所清涼殿は、1855年(安政2年)に平安時代の建築様式で造営。





敦康親王を東宮(皇太子)
にしたかった一条天皇


 敦成親王(後一条天皇)は、1011年(寛弘8年)に一条天皇三条天皇に譲位した時に皇太子に立てられたが・・・

 一条天皇は、藤原道隆の長女・定子が産んだ第一皇子の敦康親王を皇太子にしたかったらしい。

 しかし、一条天皇の側近として仕えた藤原行成に敦成親王を皇太子に立てるよう進言されたのだという。



~東宮になれなかったのは外戚のせい~

リンクボタン東宮になれなかった敦康親王~伊勢物語と外戚・高階氏~





~紫式部の歌~

 「めづらしき 光さしそふ さかづきは もちながらこそ ちよもめぐらめ」

 この歌は、後一条天皇が生まれて七日目の祝(お七夜)に紫式部が詠んだもの。

 「祝宴の杯は望月と同じように欠ける事がなく、若宮の栄光も永遠に続くことでしょう」

 有名な藤原道長の望月の歌は、この歌を真似て詠んだものという説がある。



リンクボタン望月の歌~三后を娘たちで占めた藤原道長の栄華と紫式部の歌


リンクボタン道長から賀の歌を求められる紫式部(越前市・紫きぶ七橋)

リンクボタン御五十日の祝いの宵、若宮に餅を供する道長(越前市・紫きぶ七橋)

リンクボタン御五十日祝いに若宮を抱く中宮と祝膳を供する女房(越前市・紫きぶ七橋)





~藤原道長の御嶽詣~

金峯山寺蔵王堂
リンクボタン金峯山寺
吉野山:金峯神社
リンクボタン金峯神社


 1007年(寛弘4年)8月11日、祖父の藤原道長は自ら書写した法華経などを金峯山(山上の蔵王堂)に埋納。

 翌年、敦成親王(後一条天皇)が誕生したのだという。

 吉野山金峯神社に伝わる経筒は、金峯山から出土したもので国宝。





後一条天皇菩提樹院陵
リンクボタン後一条天皇 菩提樹院陵

 後一条天皇の陵墓は、中宮・藤原威子が産んだ章子内親王の陵墓でもある。

 東側には、藤原彰子の発願で創建された東北院がある。










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