紫式部「光る君へ」

★大河ドラマ館2月23日オープン!


紫きぶ七橋
~道長から賀の歌を求められる紫式部~
(鈴虫橋)


編集:yoritomo-japan.com








紫きぶ七橋・鈴虫橋
道長から賀の歌を求められる紫式部 『紫式部日記絵巻』



 1008年(寛弘5年)11月1日、一条天皇の第二皇子・敦成親王(のちの後一条天皇)の「五十日の祝い」でのこと。

 夜の酒宴で藤原道長の酔態ぶりを見た紫式部は、宴が終わった後に宰相の君(藤原豊子)とどこかに隠れようとしていたが・・・

 そこへ、御帳台の東面の間に道長の子息頼通・教通たちや宰相中将(藤原兼隆)などが入って来て騒がしくなる。

 二人とも御帳の後ろに隠れたのだが、道長に見つかり「和歌を一首詠めば許そう」と言われる。


 いかにいかが 数へやるべき 八千歳の
 あまり久しき 君が御代をば


 (八千歳の長きにわたって続く皇子の寿命を、いったいどうやって数えたらよいのでしょう)

 と紫式部が詠むと道長は、

 あしたづの よはひしあらば 君が代の
 千歳の数も 数へとりてむ


 (わたしに鶴のような寿命があったなら、皇子の千年と続く寿命も数えることができるのだが)

 と返したのだとか。




紫式部像レリーフ
リンクボタン紫式部像レリーフ

 紫式部公園紫式部像のレリーフににもこの場面。



紫式部の歌





京都御苑:土御門第跡
リンクボタン土御門殿址


 「五十日の祝い」は、生誕50日目の夜に行われていた平安貴族の儀式。

 敦成親王(後一条天皇)の「五十日の祝い」が行われたのは藤原道長の邸宅・土御門殿(土御門邸)。

 1008年(寛弘5年)9月11日、一条天皇の中宮・藤原彰子土御門殿で敦成親王を出産。

 11月17日、敦成親王は、母の彰子とともに内裏(一条院)に遷っている。



リンクボタン藤原障子の皇子出産と紫式部と源氏物語~『紫式部日記』~





~宰相の君~

 夜の酒宴後、紫式部とともに隠れた宰相の君(藤原豊子)は、藤原道綱の娘。

 彰子が敦成親王(後一条天皇)を出産すると、娘とともに乳母を務めている。



(参考)
リンクボタン御五十日の祝いの宵、若宮に餅を供する道長





~紫式部が感じた実資~

 「五十日の祝い」で柱に寄り掛かって女房の衣の褄や袖口を数えていた藤原実資

 紫式部が声をかけてみると、今風ではなく、しっかりとした信念を持った立派な人だったのだとか。

 実資道長に対しても毅然として反論していた政界のナンバー2。





~源氏物語が文献上で初登場!~


あなかしここのわたりに若紫やさぶらふ


 『源氏物語』が文献上で初めて登場するは、「五十日の祝い」で藤原公任紫式部を「若紫」と呼ぶ『紫式部日記』の記事。

 「若紫」とは『源氏物語』の登場人物・紫の上のこと。

 そのことから、千年後の2008年(平成20年)、11月1日は「古典の日」に制定されている。



リンクボタン藤原公任と紫式部~源氏物語の初登場と古典の日:紫式部日記~





 めづらしき
 光さしそふ
 さかづきは
 もちながらこそ
 ちよもめぐらめ


 「祝宴の杯は望月と同じように欠ける事がなく、若宮の栄光も永遠に続くことでしょう」

 この歌は、後一条天皇が生まれて七日目の祝(お七夜)に紫式部が詠んだもの。

 有名な藤原道長望月の歌は、この歌を真似て詠んだものという説がある。



リンクボタン望月の歌~三后を娘たちで占めた藤原道長の栄華と紫式部の歌





紫きぶ七橋



紫きぶ七橋
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紫きぶ七橋
リンクボタン紫きぶ七橋

越前武生を流れる河濯川に架かる七つの橋のレリーフ。


紫式部公園
リンクボタン紫式部公園

越前市東千福町20

武生駅から白山行き福鉄バス
「紫式部公園口」下車

市民バス市街地循環南ルート
「紫式部公園」下車



紫式部の越前国下向
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紫式部・源氏物語・光る君へ
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紫式部


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