|
藤原豊子(ふじわらのほうし・とよこ)は藤原道綱の娘。 一条天皇の中宮・藤原彰子に仕え、彰子が産んだ後一条天皇の乳母を務めた。 彰子は豊子の叔父・藤原道長の娘なので彰子とは従姉妹。 従って、女房としての階級も「上臈」(じょうろう)で、宰相の君・弁の宰相の君・讃岐の宰相の君・美作三位などと呼ばれた。 『紫式部日記』によると・・・ 昼寝をしていた豊子を見た紫式部は「まるで絵に描いた物語の姫君」のように感じたのだという。 1008年(寛弘5年)9月11日、彰子が土御門殿で敦成親王(のちの後一条天皇)を出産すると、 「御湯殿の儀」で宰相の君(豊子)が湯殿役、大納言の君(源廉子)が介添役を務めている。 赤染衛門との交流もあったらしい。 夫の大江清通は、中宮・藤原定子に仕えていたが、彰子が中宮になると彰子に仕え、道長にも側近として仕えている。 |
藤原兼家 |
↓
|
↓
|
道長から賀の歌を求められる紫式部 (越前市・紫きぶ七橋) |
1008年(寛弘5年)11月1日、敦成親王(のちの後一条天皇)の「五十日の祝い」の夜の酒宴後、 紫式部と豊子は道長の酔態ぶりを見て隠れていたが、見つかってしまい歌を詠むよう言われたのだとか。 |
御五十日の祝いの宵、若宮に餅を供する道長 (越前市・紫きぶ七橋) |
「五十日の祝い」で禁色の着用を許された少輔の乳母は、豊子の娘。 |
御五十日祝いに若宮を抱く中宮と祝膳を供する女房 (越前市・紫きぶ七橋) |
「五十日の祝い」で給仕役を務めた。 |
五節の頃に出仕しない紫式部との贈答歌・・・ |
紫式部の歌~五節が過ぎた頃の藤原豊子との贈答歌~ |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|